世界時計

2015-02-05

第15回、『蜘蛛の糸』について、その1

 ベルリンに来てから国語の授業をする機会があった。教科書だと大半のテキストが抜粋になってしまう。そのため、有名な「青空文庫」というサイトから夏目漱石や芥川龍之介の作品を見つけ、授業に使えるかどうかを検討した。そのときに多分初めてしっかりと『蜘蛛の糸』を読んだ。(以下の『蜘蛛の糸』からの引用は全て「青空文庫」からのものです。但し、主人公の名前は漢字ではなくカタカナで『カンダタ』と表記します。) 
 その時以来この作品を意識するようになった。最近ウィキペディアでこの作品について調べてみたのだが、新しい事実が色々わかった。小松左京作『蜘蛛の糸』などというパロディの作品が存在するとは知らなかったが、YouTubeでその朗読を聞いたら中々面白かった。他にも芥川作『蜘蛛の糸』の元ネタらしき作品や似ているものなどについての紹介があった。
 さて、この作品は児童向文芸誌『赤い鳥』創刊号に発表されたようだ。これを知った時には正直驚いた。これは子供には難しいと思ったからだ。しかしその後で考え直し、これはまさに小学生向きの作品なのだと気付いた。 
 心の美しい者は上の方にある美しい極楽にいて、心のひどい者は下の方にあるひどい地獄にいる。このコントラストが小さな子供にはとてもいい。小学生には難しい話は抜きにして、こういう明快な価値観を提示するべきだろう。主人公のカンダタは蜘蛛という小さな命を大切にしたことから極楽に行くチャンスを手にする。しかし、「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまった」。感想としては、「悪いことはしちゃいけない」とか、「地獄って怖そう」ぐらいでいいのかもしれない。私自身はこの作品で小学生相手に授業をしたことはないので、そこのところはよく分からない。 
 ところで、今回自分でも驚いたことが一つある。よくよく考えたら他ならぬ自分自身がこの作品とどのように出会ったのかを全く考えていなかった。思い出してみると、確かあれは小学四年生か五年生ぐらいのときだった。それも、国語ではなく図画工作の授業で、朗読を聴いた後にそのイメージを絵にするというのが課題だった。みんなで血の池地獄や針の山、罪人達、そして上から降りて来る蜘蛛の糸などを絵にした。よくは覚えていないが、多分「お前のそれスッゲー怖そう」とかなんとか言い合っていたのではないか。
 今回はこの『蜘蛛の糸』を大人の立場から読んでみる。先に感想を一言でまとめると、こんなに中身があるとは思ってもいなかった。もう何回この文章を書き直したかわからなくなっている。でもやりがいはあったので、やって正解だったとは思っている。 
 ここで『蜘蛛の糸』の要旨をまとめてみたいのだが、ウィキペディアには先に触れたようにこの作品に内容的に近い他の作品が幾つか言及されている。以下ではそのウィキペディアの中にあるそれらの作品の紹介から、共通項を要約する。『蜘蛛の糸』が扱っているテーマの普遍性を際立たせるためである。 
1、ある人間が地獄やそれに近い場所に落とされている。
2、「これを利用すればここから救われるかもしれない」と思わせるようなある特殊なチャンスが、神などから主人公へ与えられる。 
3、同じ境遇の他の人間がそのチャンスを同様につかもうとする。しかしそれによって主人公の権利が失われそうになる。 
4、主人公がそれに抗議するか邪魔をする。 
5、そしてその一度だけのチャンスは二度と来ない。
 何と言っても第3点と第5点の厳しさが凄まじい。極楽と地獄という人間の最終的な幸福と不幸を象徴する場所についての問題が、他者との対立の中で表現されている。「他人と幸運を分かち合う」などという気持ちは自分を守るためには不要であるかのようになっているが、いざ他人を蹴落としたらもう永遠に救われない。私は中学生や高校生の国語のテキストとして吉野源三郎作『君たちはどう生きるか』を使ってきたが、人間は誰でも自分可愛さのために過ちを犯すものであり、そしてその過ちを見つめ直すことによって成長すると説かれる。これと比較するならば、上記の第3点と第5点はまさに救いがないことがはっきりする。 
 救われるかどうかの試金石になるのは第4点である。自分が助かるために他者を追い払い、そのことによってこの人達を再び地獄に落とすわけだから、この点だけを見れば褒められたものではない。しかし、このチャンスは他の人と共有しにくい一人用のものであり、極めて特殊である。他人が助かるならば自分はどうなってもいいというような犠牲的精神の持ち主の場合でなければ、他人を蹴落とすのが普通ではないかと考えたくもなる。けれどももしある人がこのような精神を持っているならば、もはや常人の域を越えているとも言えるので、極楽浄土なり天国なりに行くべき有資格者と見なされ得るだろう。 
 そういう「超人的な人物」だったら天国や極楽への切符という最高の幸福のチャンスを獲得するが、主人公は罠にはめられたような形で最悪の不幸を経験する。何とも重苦しい。
 このようなテーマ自体の過酷さもあるが、それを他人事として読めないようになっているところも特筆に値する。「一回限り利用可能なチャンスが一人分だけある」という状況は、まさに人生そのものである。往々にして人間は、「自分は今地獄のような環境にいる」と思うことがある。そういうときに出会うチャンスは、「地獄に仏」という言葉通り、まさに神仏から与えられたものであるかのように感じられる。だから失敗したらもう終わりであるというプレッシャーも出て来る。一言でまとめるならば、罪人ではなく死んだことがあるわけでもないのに、「読者である自分もカンダタと変わりない」という気持ちになるのである。大人になってからこの作品に再び接する場合、自分は本当に極楽に行けるのだろうかと自信を失うことも十分あり得るだろう。不用意にこの作品を肯定する訳には行かなくなる。 
 ただしこれらはあくまでも類似作品の共通点の話であって、『蜘蛛の糸』における設定はそれとは少しずれる。以下ではこの作品に考察を限定し、上記の三つの点について確認して行く。 
 まずは第5点である。作品をよく読んで考えると、実はカンダタは生きている間に何度も何度も反省する機会を逃したことが暗示されている。だから、今回が最後ではあっても、それまでにいくつもチャンスはあったのである。したがって『蜘蛛の糸』の場合、第5点は半分しか当てはまらない。
 ここで『蜘蛛の糸』の中身をもう一度確認してみる。この作品から読み取れるのは次のことである。つまり、人間の目からすると「一回限りの一人分の人生」が他の人生と共存し得ないように見えることがあっても、御釈迦様の目から見ればそうではないことがありうるという事実である。この物語の御釈迦様がカンダタ達の行動を地獄の真上から眺めているのは、御釈迦様だけが事態をその本質から把握していることに符合している。この作品の設定を厳密に解釈するならば、そもそもカンダタが自分の真下の状況に気づかなければ糸は切れなかったことがわかる。この物語での蜘蛛の糸とは、外見的には他者との共有が不可能なのだが、実際には可能だったのであり、上記の第3点も半分しか成り立っていなかったのである。 
 カンダタが自分の下にいる大勢の罪人たちに気づいた時に、もし御釈迦様の視点を通して自分の置かれた状況を振り返り、「下の罪人と一緒に登りなさいということだ」と理解できたならば、まさに「御仏の心」を体得したことになったのだろう。これが『蜘蛛の糸』における第4点で、罪人たちに怒鳴る代わりに自己犠牲をすべしというのではなく、御釈迦様や慈愛の心を間に挟んで彼らと接すればよいということなのである。 
 以上より、『蜘蛛の糸』の中身は見かけほどは厳しくなかったと言えるだろう。大人の立場で感情移入するとどうしても過酷な条件が要求されているように感じてしまうが、この作品の御釈迦様はもっと優しかったのである。
 しかし、この作品にはまだまだ中身がある。それについては次々回(第17回)で取り上げる。


  二月七日の追記
 この文章を書いた後でもう一度小松左京作『蜘蛛の糸』の朗読を聴きました。これについて考えたことは次回に回しますので、そちらもお読みください。また、この時点でこの第15回の題名にも「その1」という言葉を加えました。

  二月九日の追記
 一度書き上げた後で何度か本文を訂正しました。もうキリがないのでこれ以上の内容上の変更はせず、別な機会に回します。 
 人間の生死にかかわる問題は本当に難しいです。しかしこれこそが最も重要な問題とも言えますから、ぼちぼち頑張ります。 

 二月十一日の追記 
 結局また書き直しました。あまりにも長くなったので、半分に分けました。今回はまさに、「百点満点のテストで五百点ぐらいを狙う」ことになってしまいました。四百点分は、内容を変更しているうちに加算された点数を指します。 
 この変更の結果、第15回の一度目の原稿、第16回の原稿、第15回目の現在の原稿、第17回の原稿(第15回を二つに分けたうちの後半部)という順番になりそうです。

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