世界時計

2015-11-12

第26回、書くことの意味について

 七月から更新を止めてしまったが、今年の九月の時点で二年目に入った。 
 五月までの生活はまずまず順調だった。ところがそこから様々なアクシデントに見舞われた。パソコンの盗難やクラッシュのダメージは大きかった。二回目のスマホの盗難もあった。怪我もあった。十年分ぐらいのトラブルが一度に押し寄せた。  
 他方、業務の点では過去最高の忙しさとなった。このこと自体はありがたいのだが、プライベートの時間が本当に無くなってしまった。 
 いつの間にか、「八十点を取り続ける」という今年の目標が意識から消えてしまった。これは昨年の忙しさを前提にしていたのであって、だから仕方のない面もあるが、とにかく生活が乱れた。
 毎年の傾向として、十一月の中頃からは落ち着く。やり残したことを少しずつ片付けていくしかない。
  
 ブログについては、用意していた原稿がパソコンとともになくなってしまったことが大きかった。だが起こってしまったことを嘆いていても仕方ない。お蔭で新しいことを考えられるようになったと受け止めることにしている。そしてこの辺でまた軌道に乗せようと思う。そこで、これまでの一年間を振り返ってみた。 
 依然として、他人に振り回されず自分のしたいようにするという方針のままである。
 書き方の点では、高校生や大学受験生に教えていた作文や小論文の書き方とは違うものとなった。これには内心苦笑していた。あれは制限時間内に字数制限の枠内で答案を作成する方法だから、そういう条件のない時にはこだわる必要はない。だからと言って、生徒に対してあれだけ口酸っぱく言い聞かせていたことを自分が守らないというのは少し気が引けた。いずれにせよ、この点でも自分の思い通りの方法にこだわった。  
 内容の点では、機会があればまとめてみようと温めていた題材を中心に選んだ。パソコンの盗難のために、良くも悪くも、これまでの「在庫」が無くなってしまった。結果的にちょうど一区切りついてしまった。
 それでは、本当に書きたいと思っていることを実際に書いてこれたかというと、そうでもない。そもそも自分が何を書きたいのかがわかっていない。取り敢えず今のところは、それを知るために書いているような感もある。もっと言えば、自分探しの旅のようでもある。
 自分の内側に存在するものに形を与えて外に出すような話だが、何度も試行錯誤してやっと両者は一致する。この時点でその文章は完成である。ところが、それが本当に書きたかったことかというと、そこには微妙なズレがある。月日が経過すればするほど、他人の文章のようにすら思えてくる。今度は別のテーマで同じ作業に取り組む。そしてまた同じように本当に書きたかったこととのズレを感じる。だから、何を書いても自分の文章ではあるが、真の自分とは一致していない。つまり、自分自身の内と外との分裂ではなく、自分自身と本当の自分との分裂の話になっている。「これこそがまさに自分だ」と思って追いかけても、そこに辿り着くとその先に新しい自分が生まれてしまう。したがって、文章を書きながら本当の自分を探すようなことになっている。
 私もいい年なので自己紹介はできるし、ある程度は本当の自分についても知っている。ただ、文章をまとめたり、本当の自分について論理的に考えてみたりすると、それらとは異なる新しい本当の自分が生まれるのである。もう四十歳を超えているのだからこの辺で打ち止めにして、その時点での真の自分を基準にし続けようと考えたこともある。でも新たな真の自分は容赦なく生まれてしまう。正直なところ、こういう運動自体がヘーゲル哲学そのものとも言えるので、半ば面白がってやっている面はある。
 通訳やガイド、翻訳の場合はまったく話が変わる。この時には依頼主の内側にあるものを実現させるのであり、こちらはその先のことを考える必要はない。これはこれで重要な作業であり、まずはこの方法で内と外との一致のさせ方を学ぶというのがオーソドックスなあり方だろう。もっとも、お客様の評価とは別に自分の基準を持ち始めると結局似たようなことになる。とは言え、あくまでも自分の満足度二の次にしなければならない。
 このブログでは、読者の方には申し訳ない部分もあるが、他人の満足を二の次にしてでも本当の自分が生まれ続けるのを眺めていくことにする。「ヘーゲルだったらこう考えるだろうな」という推測はつくのだが、敢えてそれは脇に置き、自分がどう変化していくかを見守っていく。ヘーゲルも他人の一人であり、ヘーゲルの基準も二の次にする。