世界時計

2014-11-29

第9回、フロートもしくはアイソレーション・タンクについて、その2

 前回はフロートとの出会いについて取り上げたので、今回からはそれ以降に経験したことを確認していく。ただ、フロートの効果においては個人差が大きいようで、さらに私の場合はやり過ぎだったかもしれないので、試してみるときにはあくまでも自己責任ということでご了承願いたい。 
 私にとってのフロートにおけるテーマは大きく分けて二つある。一つがリラックス効果であり、もう一つが感覚や意識の実験である。後者は、大げさに表現するならば、マッド・サイエンティストが自分自身を使って人体実験をしたようなものだ。 
 また、『自己コントロール』(成瀬悟策著、講談社現代新書)で知った「筋肉の弛緩」とフロートとの関係についても説明しておく。前者については二十年以上前に読んだ本なので実はもうよく覚えていない。筋肉を自分の意志でコントロールするためにまずはそこから力を抜くというような話だった。緊張状態が続くと特定の筋肉には力が入りっぱなしになるそうで、まずはその状態を自力で解消するということと理解している。他方、フロートの場合は五感に対する刺激を遮断するためにタンクに入る。ここからはあくまでも自己流の解釈だが、外界からの刺激に左右されないようにするためにタンクによって外界からの刺激そのものを減らし、そして「筋肉の弛緩」を試みることによってその効果を徹底するということを想定した。ところが、どうやら自分の予想以上の効果が出たらしく、そのために万人向きとは言えない方法となってしまった。
   
 二回目から五回目ぐらいまでのメインテーマは全身の筋肉の弛緩だったが、割合早い段階で満足感を得た。金縛りに近い感覚だが、特に首から下の肉体が痺れ、自分のものでないかのようになる。体の疲れを取るという観点からすると、最初に少し寝て、その後で全身から力を抜くという順序が最も効果的だった。フロートに行けば体調がよくなるという自信がついた。 
 それ以降は上記の実験の方が主となった。元々心理学の実験のために作られた装置だそうで、リラックスすることよりもこちらの方が本来の使い方に近いのだろう。ごく普通の状態で眠るだけでも意識はなくなると言えるが、それよりもさらに意識をなくすことを目標にした。パソコンに例えるならば、ソフトを起動させないだけでなく、バックグラウンドの処理も極力ゼロにするようなものだ。ただ、これをやり過ぎるとフロートの後で丸一日頭が働かなくなるので、十回目を過ぎたあたりからは適度な水準を心がけた。
   
 この実験については次回以降に回すとして、ここではフロートの効果の特にその肉体的な側面について指摘しておく。その店の常連になってしまったため色々とお願いを聞いてもらえるようになったのだが、フロートの後に別室にあるベッドで一時間ほど寝かせてもらえたのが大きかった。体の疲れはこれで大体取れた。そして店を出てからレストランに行くのだが、そこまでの距離を歩くわずかの間は視力が急によくなったと感じることが多かった。 
 どういう訳かフロートの後には自然と腹式呼吸になるのだが、ただ単に鼻で呼吸をするだけで脳の疲れが取れていく。フロートの後に通りを歩いていた途中に、一度だけ知人に出くわしたことがあるが、「何その気持ちよさそうな顔は」と言って大笑いされてしまった。
 それからしばらくして気づいた。まさに、「頭蓋骨をヘルメットのように外して脳を直接マッサージしてもらう」ような感覚なのである。実際に脳に対する刺激を一時的に減少させるので、頭がい骨を外すのではないが、脳の疲れの元になる体から脳が分離されるようなことになり、脳に解放感が生じるのだろう。また、ウィキペディアの記述によるとフロートには血管拡張作用があるらしいので、呼吸から得られる酸素やその他の栄養素が脳に大量に運搬されるらしい。言うなれば脳の外側からではなく内側からのマッサージか。こうして思いも寄らない形でまさに長年の夢が実現した。

2014-11-25

第8回、フロートもしくはアイソレーション・タンクについて、その1

 毎年九月から十一月が一番忙しくなるのだが、ようやくその山場を越えつつある。通訳業務が多い場合は特にそうなるのだが、まさに頭が疲れてくる。こうなると眠ったぐらいでは疲れが取れない。
 日本にいて現代国語や小論文の授業をしながら哲学書を読んでいた時には、たまたま近所に腕のいいマッサージ師を見つけることができた。あの方のお蔭で初めてマッサージの素晴らしさを実感できたのだが、それでもよく思ったものだ。「頭蓋骨をヘルメットのように外して脳を直接マッサージしてもらえたらどんなにいいだろう。」
 それよりも数年前の大学生のときには『自己コントロール』(成瀬悟策著、講談社現代新書)という本を読んだ。原則として自分の意志で動かせるはずの随意筋と呼ばれる筋肉があるそうで、それを本当に自分でコントロールできるようにするためのトレーニングが紹介されていた。その一番目として手首に近い部位の筋肉を弛緩させるという項目があった。部屋を暗くしてベッドに横たわるという環境で実施するため、これは何とかできた。ところが二番目は椅子に座っている状態でのトレーニングで、この動作をしているだけでどうしても体に力が入るため、そこで挫折した。それでも体の筋肉を緩めることの意義は何となくわかった。(補足しておくと、随意筋を自由にコントロールできるかどうかの基準として、無意識のうちに力が入ってしまう筋肉の部位から力を抜けるかどうかが問われていたと思います。また、以下に書いていくことはこの本からヒントを受けた結果に過ぎず、同書の正しい理解に基づく実践だったというわけでは全くありません。その詳しい内容については同書でお確かめください。)
 以上がフロートもしくはアイソレーション・タンクと呼ばれるものと出会うまでの背景説明である。これから書くことは多分他の体験者の感想とかなり異なるだろうから、断り書きのような意味で最初にまとめておくことにした。


 確か三年前ぐらいのことだが、ある人からベルリンにフロートというものをやっている店があると聞いた。真っ暗で匂いも音もないタンクの中で死海のような環境を整え、体を浮かせ(ここからフロートという名前になる)、ありとあらゆる感覚の対象から自分自身を遮断させるというような話だった。ウィキペディアにも「アイソレーション・タンク」という項目にその説明があった。これは面白そうだと思い、その店に行ってみることにした。
 簡単に説明を受けた後、洗面台とシャワーとトイレとタンクのある個室に入る。サマーディ・タンクというもので、体温と同じぐらいで高い濃度の硫酸マグネシウム溶液が入っている。体をよく洗い、タンクに入り、あおむけに横たわる。実際に体が浮いた。二十年以上前に読んだ『自己コントロール』のことを既に思い出していたので、最初から筋肉の弛緩を目指した。重力すらもほとんど感じないため、体の一部ではなくいきなり全身の筋肉から力を抜くことに意識を集中させた。
 今にして思えば、一回目はまだ要領が分からなかったためほとんど失敗だったのだが、それでも色々と奇妙なことが起きた。まずは時間感覚である。終了時間になると係の人が部屋に入ってきてタンクを叩いて知らせるのだが、一時間入っていたはずなのに三十分にも満たないように感じた。ただ寝ていただけなのに頭がフラフラした。動けなくなってそのままソファで三十分ほど横になった。
 そしてそこから近くにあるレストランに行こうとしたのだが、ここでありえないことが起きた。本当はフロートの店を出てそのままほぼ真直ぐ百メートルほど歩き、一度右に曲がれば到着するのである。ところが、どういう訳か、店を出てすぐに左に曲がり、ある程度歩いてから右に二回曲がるというような考えが浮かんでしまった。それを実行したのだがどうもおかしい。そして駅に着いてしまったのだが、そこで気づいた。店を出て左に曲がったつもりが、実は右に曲がっていたのだった。それから何とかレストランに辿り着いたのだが、きちんと座ることができずにへたり込んでしまう。コートを取ろうと席を立っても壁を支えにしないと体を持ち上げられない。多分タンクにいた時に脳の活動が比較的停止に近い状態になったのだろう。
 結局その日はほとんど何もできなかった。翌朝のことは覚えている。頭は相変わらずフラフラしていたが、体にも痺れるような感覚があった。疲れすぎた状態で風邪をひく場合には熟睡できずに困ることがよくあるのだが、体が痺れるようなこの眠り方ができると体調が復活する。日本でのマッサージの翌朝には首と肩と背骨がバラバラに外れたかのような感覚があったのだが、それに近いものもあった。そこで、これはどうやら本物らしいという実感を得た。
(私の友人・知人でこの同じフロートを試した人々には、ここまでの極端な結果は出ていません。「まずまず気持ちよかった」、「タンクにいた時には確かに時間感覚は変わった」ぐらいの感想が多かったです。以上は私が疲れ過ぎていてなおかつ自己流で色々試した結果と解釈するべきでしょう。)

2014-11-07

第7回、『ファオスト抄』について、その3

 前回までにおいて、関口存男(せきぐちつぎお)の『ファオスト抄』そのものについての考えを大体まとめた。今回のテーマは、文学作品中の人物であるファウストの生き方を現実の人間の生き方に適用するための条件とは何かである。(以下にある鍵カッコの中は引用部分であり、旧仮名遣いや旧漢字、古い表現は断りなく変更します。難読語には丸カッコで読みを示すこともあります。)
 関口によると、ゲーテの功績とは「ファオスト主義」を「『人間』というものの最高理想の一つ」として立てたことだった。「Faust主義なるものの悲壮な男々しさは、人間完成のためには敢然としてこの『この世ながらの地獄をも当然の景物として笑って一身に引き受ける』という気構えにあるのである。」
 関口は「Faustの野心」を以下のように説明している。「博士が求めているのは、むしろ『人生の深み』である、「生活の高潮」である。[途中略]要するに人間として味わえる限りの楽苦を味わい、人間としての心の奥に眠っている感情の鍵盤を、最高のキイから最低のキイに至るまで、そのありとあらゆる音色をありとあらゆる可能な順序に結合して嵐の如くに叩き回し、そこから叩き出しうる限りの旋律を全部叩き出して、『人心のピアノ』というものは大体こんなものであって、これが最大限度である、これより以上はもうピアノを叩き割った場合の轟音より以外に出すべき音は無いというところまで叩いてみたい」。
 前回取り上げたようにファウストは、思考の人との対比という意味において、行動と感情の人に変身する。この引用部分ではその感情の側面について説明されている。確かにこの境地に至れば、「金や女や名誉」で十分満足してストップすることはないだろう。
 ここで話を整理する。ファウストの目的は「人間完成」であり、その手段は二つに分かれる。一つは客観的側面であり、知識もしくは思考である。もう一つは主体的側面であり、これはさらに行動と感情に分かれる。
 さて、ここから二つの論点が出て来る。「人間として味わえる限りの楽苦を味わ」うことは「人間完成」のための手段だが、これは行動と感情という側面に過ぎない。メフィストフェレスと出会う前のいわば知識や思考の時代がなければ片手落ちであり、「人間完成」にはならない。これが今回のテーマに対する一つ目の結論である。
 もう一つの論点は、フィクションと現実世界の関係の問題である。作品中ではファウストは常にメフィストフェレスに伴われているため、死や老化の問題すらも障害にならない。何度も幸運や幸福がやってきて、そして必ずその後には不運や不幸が続く。その際、メフィストフェレスにとって意味のない不運や不幸は皆取り除かれている。メフィストフェレスは作品内部に登場する神からほぼ全権委任を受けているので、ファウストと一緒に酒場に行こうとしたら土砂降りのため翌日に持ち越したなどという間抜けな話はありえない。ファウストとメフィストフェレスの双方にとって外的な事件が起こりえないという条件で、さらに肉体的な制約がないのだから、全てはファウストの内面的、精神的な問題に帰着する。「人心のピアノ」の音色を試し尽くすという観点から見て極めてよくできた設定である。
 ところが現実の人生ではそうはいかない。まず、不老不死の人間はいない。そんなに何度も幸運や幸福はやって来ない。自分は不運や不幸を受け入れるなどという考えでいたら、例えば無意味に病気にかかったり他人に財産を騙し取られたりして、その分だけ人生を空費することになるかもしれない。「この世ながらの地獄をも当然の景物として笑って一身に引き受ける」という場合に、本当にそれらの「地獄」をよりによって無条件に受け入れ続けていたら、あっという間に息絶えるだろう。
 したがって、有限な個人の人生では、ある特定の不運や不幸を受け止めることがそもそも可能なのかどうか、またそうすることが自分の理想を追求する上で本当に必要なのかどうかを見極めなければならない。そうでない不運や不幸は極力回避しなければならない。ある人がファウストの生き方を「『人間』というものの最高理想の一つ」と承認し、それを自分の身に実現させようとして様々な「楽苦を味わ」うというなら、まさにこの不運や不幸、さらに幸運や幸福を見極める能力が不可欠な条件になる。
 以上より、知識や思考の側面が欠ければ「人間完成」にはなりえず、自分の人生に何を受け入れるべきなのかの見極め無しには「人間完成」は不可能であるというのが結論である。 
 後者についてもう少し補足する。文学作品である『ファウスト』においては、どの幸不幸をファウストが受け入れるかの見極めはメフィストフェレスによってなされる。また、その受け入れの全てが可能であるようにメフィストフェレスが保証している。ところが良くも悪くも現実の人間にはメフィストフェレスが付いて来ないので、この点については各個人が自分で責任を取らなければならない。これは生き方の問題そのものであり、別な機会にまた考えたい。