世界時計

2014-11-25

第8回、フロートもしくはアイソレーション・タンクについて、その1

 毎年九月から十一月が一番忙しくなるのだが、ようやくその山場を越えつつある。通訳業務が多い場合は特にそうなるのだが、まさに頭が疲れてくる。こうなると眠ったぐらいでは疲れが取れない。
 日本にいて現代国語や小論文の授業をしながら哲学書を読んでいた時には、たまたま近所に腕のいいマッサージ師を見つけることができた。あの方のお蔭で初めてマッサージの素晴らしさを実感できたのだが、それでもよく思ったものだ。「頭蓋骨をヘルメットのように外して脳を直接マッサージしてもらえたらどんなにいいだろう。」
 それよりも数年前の大学生のときには『自己コントロール』(成瀬悟策著、講談社現代新書)という本を読んだ。原則として自分の意志で動かせるはずの随意筋と呼ばれる筋肉があるそうで、それを本当に自分でコントロールできるようにするためのトレーニングが紹介されていた。その一番目として手首に近い部位の筋肉を弛緩させるという項目があった。部屋を暗くしてベッドに横たわるという環境で実施するため、これは何とかできた。ところが二番目は椅子に座っている状態でのトレーニングで、この動作をしているだけでどうしても体に力が入るため、そこで挫折した。それでも体の筋肉を緩めることの意義は何となくわかった。(補足しておくと、随意筋を自由にコントロールできるかどうかの基準として、無意識のうちに力が入ってしまう筋肉の部位から力を抜けるかどうかが問われていたと思います。また、以下に書いていくことはこの本からヒントを受けた結果に過ぎず、同書の正しい理解に基づく実践だったというわけでは全くありません。その詳しい内容については同書でお確かめください。)
 以上がフロートもしくはアイソレーション・タンクと呼ばれるものと出会うまでの背景説明である。これから書くことは多分他の体験者の感想とかなり異なるだろうから、断り書きのような意味で最初にまとめておくことにした。


 確か三年前ぐらいのことだが、ある人からベルリンにフロートというものをやっている店があると聞いた。真っ暗で匂いも音もないタンクの中で死海のような環境を整え、体を浮かせ(ここからフロートという名前になる)、ありとあらゆる感覚の対象から自分自身を遮断させるというような話だった。ウィキペディアにも「アイソレーション・タンク」という項目にその説明があった。これは面白そうだと思い、その店に行ってみることにした。
 簡単に説明を受けた後、洗面台とシャワーとトイレとタンクのある個室に入る。サマーディ・タンクというもので、体温と同じぐらいで高い濃度の硫酸マグネシウム溶液が入っている。体をよく洗い、タンクに入り、あおむけに横たわる。実際に体が浮いた。二十年以上前に読んだ『自己コントロール』のことを既に思い出していたので、最初から筋肉の弛緩を目指した。重力すらもほとんど感じないため、体の一部ではなくいきなり全身の筋肉から力を抜くことに意識を集中させた。
 今にして思えば、一回目はまだ要領が分からなかったためほとんど失敗だったのだが、それでも色々と奇妙なことが起きた。まずは時間感覚である。終了時間になると係の人が部屋に入ってきてタンクを叩いて知らせるのだが、一時間入っていたはずなのに三十分にも満たないように感じた。ただ寝ていただけなのに頭がフラフラした。動けなくなってそのままソファで三十分ほど横になった。
 そしてそこから近くにあるレストランに行こうとしたのだが、ここでありえないことが起きた。本当はフロートの店を出てそのままほぼ真直ぐ百メートルほど歩き、一度右に曲がれば到着するのである。ところが、どういう訳か、店を出てすぐに左に曲がり、ある程度歩いてから右に二回曲がるというような考えが浮かんでしまった。それを実行したのだがどうもおかしい。そして駅に着いてしまったのだが、そこで気づいた。店を出て左に曲がったつもりが、実は右に曲がっていたのだった。それから何とかレストランに辿り着いたのだが、きちんと座ることができずにへたり込んでしまう。コートを取ろうと席を立っても壁を支えにしないと体を持ち上げられない。多分タンクにいた時に脳の活動が比較的停止に近い状態になったのだろう。
 結局その日はほとんど何もできなかった。翌朝のことは覚えている。頭は相変わらずフラフラしていたが、体にも痺れるような感覚があった。疲れすぎた状態で風邪をひく場合には熟睡できずに困ることがよくあるのだが、体が痺れるようなこの眠り方ができると体調が復活する。日本でのマッサージの翌朝には首と肩と背骨がバラバラに外れたかのような感覚があったのだが、それに近いものもあった。そこで、これはどうやら本物らしいという実感を得た。
(私の友人・知人でこの同じフロートを試した人々には、ここまでの極端な結果は出ていません。「まずまず気持ちよかった」、「タンクにいた時には確かに時間感覚は変わった」ぐらいの感想が多かったです。以上は私が疲れ過ぎていてなおかつ自己流で色々試した結果と解釈するべきでしょう。)

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