世界時計

2014-09-26

第3回、ポツダム会談とポツダム宣言のねじれ

 ドイツ観光のツアーには、ベルリンとポツダムという二つの町を一日で観て回るプログラムがある。ポツダムと言えば、大多数の日本人にとってはポツダム宣言とポツダム会談とが連想されるだろう。まさにこのポツダム会談が開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿にお連れするのが、ポツダム観光での定番になっている。
 この業界に入るにあたってお世話になった方が数人いらっしゃるが、そのうちの一人から、仲晃(なかあきら)氏の『黙殺』(二〇〇〇年、NHKブックス)を紹介していただいた。副題は「ポツダム宣言の真実と日本の運命」である。上・下巻でそれぞれ三百ページ以上ある。重要人物の議会証言や日記、回想録、電報や手紙などのデータがぎっしり詰まっている力作である。全部は中々読み切れない。
 今回この文をまとめる気になったのは、ポツダム会談の行われた一九四五年七月一七日から八月二日までに何があったかを知っておくことが、日本人として生きていく上でとても大切だと思うようになったからである。
 それではその内容だが、著者の仲氏自らが上巻で幾つかの論点を提示されているので、以下ではその主要な部分を引用しながらまとめてみる。
 一、ポツダム会談(七月一七日から八月二日)の参加国は米・英・ソであるが、ポツダム宣言(七月二六日)は米、英、そして蒋介石率いる中華民国である。中華人民共和国でもない。ソ連がポツダム宣言に加わったのは八月八日である。
 二、常識的には、ポツダム会談で日本について議論されたのでポツダム宣言が発行されたと考えたくなるところだが、会談では日本は「正式な議題として討議されることはなかった」。欧州の戦後処理に限定されたポツダム会談と、日本に対して降伏を要求するポツダム宣言とは、内容的にも別物である。
 三、ソ連の対日参戦の意向は、「トルーマン大統領を当初大いに喜ばせた。」
 四、「アメリカは当初、ソ連を『ポツダム宣言』の原参加国に加える構想を持っていたが、原爆実験の成功を見て、最後の瞬間にソ連を外し、中国を繰り入れた。」(以上の鍵カッコ内は引用部分であり、全て上巻の一七〇ページによる。)
 これだけではわかりにくいだろうとは思うものの、あとはやはり『黙殺』を一読されることをお勧めする。最近は別のいい本も出ているようだし、また私の同僚はドイツのドキュメンタリー番組で上記の内容を確認したらしいので、しっかりした取材に裏打ちされたソースならどれでも構わない。この仕事をしていなければ知ろうともしなかったと断言できる私が言うのは恐縮だが、知っておいて損はない。ソ連の対日参戦の意味はどのように変化したのか、どのような過程を経て日本に原爆が投下されたのか、東西冷戦はどのように発生したのかなどについての重要なヒントが得られる。
 こういった比較的過去の問題だけではない。北方領土の件はまさにポツダム会談やポツダム宣言の辺りの歴史に関係する。尖閣諸島の問題もその二つにつながる。「人民日報」のニュースサイトである「人民網日本語版」をたまに読むが、この問題に関しては、同サイトはサンフランシスコ講和条約に言及せず、ひたすらカイロ宣言とポツダム宣言を強調している。(例えば2014年8月8日の「日本が罪を悔いない歴史的遺伝子」を参照。)実際に二〇一三年五月二六日には中華人民共和国の李克強首相がこの宮殿を訪れ、そしてまさにこの二つの宣言を引き合いに出しながら日本批判を行っている。
 ツェツィーリエンホーフ宮殿にご案内するたびに実感するが、ポツダム会談とポツダム宣言がねじれていく過程で戦後の冷戦と現在の北東アジア問題それぞれの火種が生じた。ポツダムまで来る必要があるかどうかはともかくとして、1945年7月以降のポツダムで何が起こったかを知ることは、日本人が戦後から現在に至る歴史を振り返る上で是非とも必要だと思う。 


9月28日付の補足
 ポツダム会談とポツダム宣言の違いを強調し過ぎました。ポツダム会談の期間中における「非公式の」話し合いや電報のやり取りにおいて、対日政策や原爆の使用方法についての意見交換が行われ、その結果としてポツダム宣言が出ています。公式の会談(つまりポツダム会談そのもの)と非公式の協議とのズレから、ポツダム会談とポツダム宣言のズレが生じたと言えるのかもしれません。詳しくは『黙殺』やその他の専門書をお読みください。

2014-09-24

第2回、この十五年間について

 色々考えたが、今回は、「ベルリンで考えていること」を書いて行く上での背景説明に徹することにした。
 東京時代のことから始める。私には昔から哲学と経済学の両方をやりたいという希望があった。そして大学では経済学を専攻し、哲学は大学の外でやっていた。
 卒業後に信託銀行を選んだのには色々な理由があるが、銀行だと数多くの業種に関わることができ、また当時の信託銀行は金融機関の中で最も業務の幅が広かったということが挙げられる。
 現代国語と小論文の塾講師をしていたときには、哲学書の読み方や哲学的な考え方を大学受験に応用していた。
 さて、ベルリン自由大学に入学し、哲学と日本学を専攻した。特に後者では日本経済を主たるテーマとしていたが、まさに理想的な組み合わせだった。ベルリンでの最初の数年間の課題はこの形でマギスター(昔の修士号)を最短コースで取ることだったが、この点については目標を達成した。
 そしてマギスター取得後ぐらいから旅行業を始めた。通訳とガイドという二つの業務は結局混ざることが多いので、ここでは企業や官公庁などによる「視察」か、もしくは純粋な「観光」かと分類してみる。視察の仕事は様々な業種と関わり、日本側とドイツ側の両方と接触することにもなる。商談もあれば工場視察もある。シビアな状況に陥ることも多いが、やりがいもある。観光はというと、人を楽しませるという実に変わった仕事である。毎年数百人の方々と一日か二日だけご一緒するが、折角ベルリンまで来ていただいたので、できる限りいい思い出を持ち帰っていただこうとしている。
 この辺で、なぜ「色々な業種」にこだわるのかについて触れておく。日本の大学時代の私は、人生を二回以上送れたらどんなにいいだろうと思っていた。もちろんこれは無理である。そこで、「一つの職業に就くことにより複数の職業に就く効果が出るようにする」というのと、「ある職業に就いてある程度先が見えたら、その時点でその後を考える」ということをやるようになった。(特にこの二つ目については、手堅い人生を選ぶ人からするとまさに訳の分からない考え方でしょう。高校生や浪人生に授業をする時にはできる限りこの話はしないように注意していました。)
 とにかくこの二つの方針を立てたのだが、そうすると銀行や旅行業さらに翻訳業というのは、多くの職種に関わるという点で都合がいいのである。相手先の業務内容を把握しているかが重要になり、またそれを資料などの形で教えていただくことも多々ある。そうして「もし自分がこの仕事をしていたらこういう人生になるだろう」というような想像を繰り返す。普通の人は小説や映画などを利用するのであろうが、私の場合はここまでしないと気が済まないのである。もっとも最近は、とにかく今の人生を充実させることに集中しようという具合に心境が変わった。
 ドイツに来てからは新たな観点が生まれた。フライブルク時代からいわゆる芸術家と知り合う機会が増えたのだが、ベルリンでは特に「前衛的な」芸術家と出会う機会ができた。(この表現は本当はおかしいのですが、とりあえず「伝統第一主義ではない」というぐらいの意味です。)残念ながらどうもうまく説明できないのだが、とりあえずその中のある人の名言をここに引用させていただく。「ベルリンの人たちって、ペンギン村みたいだね。」私自身はこの漫画を読んでいないのだが、その時は、「ああ、きっとそうなんだろうな」と思った。とてものどかなコミュニティということもあるが、社会的常識よりも自分の中の基準を大事にしている人々という言い方もできるかもしれない。自分は常識からずれているので常識にこだわろうという考え方を私自身はしてきたが、そんなに無理する必要もないという気持ちになれた。もっとも私自身はペンギンという感じでもないのだが。
 一応哲学科の博士課程のことについても触れておく。ヘーゲルの『大論理学』を取り上げているが、もうかなりの長期間になってしまった。自分としては満足できる発見を数回したし実りはあったが、どうも形にならない。この話になると多くの人が「絶対に取るべきだ」と言ってくださるし一応頑張るつもりではいるが、そのことにあまり振り回されないようにもしている。
  これまでの十五年間についてはこれで十分だろう。次回は「現在」考えていることを書く。 

2014-09-15

第1回 東京からフライブルクへ、そしてベルリンへ

 一九九七年の秋ごろから、南ドイツにある、「黒の森」で有名なフライブルクという町に住み始めた。このときは東京からの引っ越しであり、ドイツ語習得が目的だった。そしてそれから二年後に、東京には帰らずに別の町に移る計画を立てた。
 日本ではある塾で大学受験の現代国語と小論文を教えていた。そのこともあり、引っ越し先としては「日本人が多く住んでいるところ」という基準があった。(結局ベルリンにはこの手の需要がほとんどないことが明らかになったものの、海外の日本人に対する日本語教育に関わる機会を得ました。)
 また、大学のこともあった。私は日本の大学では経済学部を卒業していたが、今回は哲学科に在籍することが第一の目標だった。当時のドイツにはマスターではなくマギスターという制度があった。日本の修士課程に対応するが、マスターと違って主専攻一つと副専攻二つか、または主専攻を二つ取らなければならなかった。色々検討した結果、「哲学と日本学を二つの主専攻として受講する」という方針を立てた。段々思い出せなくなってきているが、この希望を実現できた大学というのは確かミュンヘン、フランクフルト、ベルリンなどにある幾つかの大学だけだった。
 このように考えていくうちに、ベルリンにしようと思い立った。
 自分なりに必死に考えた上でベルリンを選んだのであり、その点ではいいのだが、ベルリンに一度も行かずにそう決めたのは自分らしかった。せいぜい「東西ベルリンの分断」とかそういう言葉が頭にあっただけだった。そもそもベルリンの基本情報すらあまり調べていなかったのである。
 フライブルク時代は語学習得を目的としてあるドイツ人家庭の元に下宿していたが、部屋のドアのところにドイツ全土の地図が張られていた。ベルリンにしようかなと思い始めていた頃だったが、この地図でベルリンを探したことがある。フライブルクの地点から旧東西ドイツの国境を見つけ、その
線上を下から上へ、つまり南から北へと指を這わせ、Berlin
という文字を見つけようとした。ところが、東西ドイツ国境上にBerlinは無かった。国境の近くを探しても無駄だった。ここまでを読んで「なぜなのだろう」と思われた方は、当時の私と同じレベルである。実際にはベルリンは旧東ドイツ地域の中心寄りに位置していた。だからその西半分の西ベルリンが「陸の孤島」と呼ばれたのであり、西ベルリンの北も西も南も皆東ドイツだったのである。(このことを知った後でその地図を見た時には、もちろんベルリンはあるべき場所にありました。) 
 観光のお客様の前でこれを実演すると、「そうだそうだ」とうなずかれる方もいらっしゃるが、急に表情が硬くなる方や正直に「えっ」という表情をされる方もいらっしゃる。「昔の自分と同じだ」と思う部分もあるが、私の場合は既に二年間もドイツに住んでいてそうだったのであり、かなりの重症だった。  
 何はともあれ、ベルリンに引っ越してから丁度十五年が経過しつつある。この辺で少しずつ「考えたこと」や「考えていること」をまとめていこうかという気になった。