世界時計

2015-05-17

第23回、新しい「明日」を迎える方法(『Groundhog Day』についての2)

 以下は第22回の続きである。まずそれをお読みいただいてから以下に進むようにお願いしたい。但し、部分的に映画の「ネタバレ」になるのでご注意いただきたい。 
  
 前回は『Groundhog Day』(邦題は『恋はデジャ・ブ』)の中から「物事を否定的に見る態度」と「同じような毎日を繰り返すこと」いう二つを取り出し、前者について考えた。主人公が最終的には他者と自分を受け入れ、他者の幸せを自分の幸せとする人生を選択し、全てを受け入れられるようになったことを確認した。さて、今回は後者について考える。
 この映画においては「2月2日の世界」が何度も繰り返される。これは映画の設定として面白いというだけでなく、妙なリアリティを持っている。現実の話としても、毎日同じことの繰り返しでうんざりするというのは、愚痴の内容としては定番になっている。
 主人公の男性の場合は、最初は戸惑っていたもののある時点で開き直り、道徳的にまたは法律的に許されないことをし始める。「2月3日」が来ないということは、明日が来ないことだと言えなくもない。「明日」を否定することにより、毎回の「今日」において無責任な生き方をする。 
 他方では、毎回の「2月2日」をその次の「2月2日」のための捨て石にし始める。今回の「2月2日」で実験をしておいて次回の「2月2日」でそれを生かす。やり直しのできるゲームで、うまく行くまで何度もリセットするようなものである。これでは毎回の「今日」における人生が真実味の欠けたものになってしまう。 
 前回確認したように、同僚の女性に振られるまでの男性には物事を否定的に見る傾向が強かったが、生き方の面でもこのように毎回訪れる「今日」を否定する。人生の内容と形式がピッタリ符合している。
 結局男性は何度も自殺を試み、自殺を諦め、そして女性の価値観を受け入れていく。こうしてありとあらゆる対象を肯定するようになる。さらに、「明日」の有無に関わらずとにかく「今日」を肯定する生き方をし始める。 
 「明日」が来ないということから刹那的な生き方になっていたのだが、「明日」が来ないので毎回の「今日」を大切にするという生き方に変化する。大して仲の良くなかった男性の同僚にも声をかけ、気の合わない昔の知り合いとも話をするようになる。人間がいつかは死ぬ存在であることを深く自覚した後では、この傾向に拍車がかかる。 
 「明日」が来るので「今日」を捨てるという生き方は、より良い「明日」のためにより良い「今日」にするというものになる。ピアノや氷の彫刻を習い始めるのだが、名人級の実力をつけるのは一朝一夕には無理であるものの、毎日の上達を楽しんでいるシーンが描かれている。
 最終的には、「明日何が起ころうとも、また残りの人生に何があろうとも、今自分は幸せだ」とつぶやく。そして「2月2日の世界」から解放される。(実際にはそのセリフの後に「because I love you.」と続きます。) 
 それではまとめに入る。「明日は来ない」と思って「今日」を真剣に生き、また「より良い明日へとつなげる」ために「今日をより良いものにする」ということを続けていくと、ある時点で最高点に達する。これまでの同じような「今日」のシリーズが完成したら、それらとは本質的に異なるある一日が、「新しい明日」としてやって来る。そのような人生に転換するきっかけとしては恋愛感情も強調されているが、前回(第22回)においてまとめたように、「もう死ぬことすらも許されないという諦め」(否定の否定)、そしてそこから出て来る「自分の人生をありのままに受け入れる覚悟」(一段高い次元での肯定)の方が、この映画ではより重要な役割を担っていると思う。(しかしこの映画においては、主人公の周りには善人しかいないという前提があります。悪意を持つ人間がいる場合にどのように自分の人生を肯定するかという観点はありません。) 
 ここで一つ補足しておく。今回は時間軸を主として取り上げたが、この男性が小さな町に閉じ込められていることも見過ごせないファクターである。もし大都会にいるときに「2月2日」が反復したら、主人公が人生を変えるまでに必要な「2月2日」の回数がもっともっと必要になるだろう。現実の世界にこのことを応用させると、自分の周囲の環境がきちんとしているかどうかが良い生き方の第一の基準と言えそうだ。 
 この映画には少なくともあと一つ大事な観点があるのだが、とりあえず今回はこれで終わりにする。このブログを書くためにDVDで何度も見直し考え続けたが、初めて気づくことが多かった。前回と今回は予定よりも大幅に時間がかかったが、やって良かったという充実感はある。なおこの映画自体はいわゆるラブコメとかいうジャンルに入るようなので、ご覧になった方は実際の映画とここまでの文章とのギャップにきっと驚かれることだろう。前回の冒頭でも触れたように、映画の批評ではなく映画をきっかけにして考えたことを書いているので、その点はご了承いただきたい。
(5月18日の追記。一部の字句と内容について加筆修正を行いました。)

2015-05-03

第22回、物事を肯定的に見る方法(『Groundhog Day』についての1) 

 まだ東京に住んでいた頃にある人から幾つかの映画を薦められた。レンタルビデオ店で借りて順番に見ていったが、本当に気に入ったものもあった。そのうちの一つが『Groundhog Day』である。ベルリンに来てからはDVDを購入して視聴した。 
 この映画はビル・マーレイ主演の1993年の作品である。グラウンドホッグ(groundhog)とはモグラに似た動物である。毎年2月2日にアメリカのペンシルベニア州のパンクスタウニーという小さな町で、この動物が主役となるグラウンドホッグデーという行事が開催されるそうだが、この映画ではほとんどその「一日」だけが描かれている。邦題は『恋はデジャ・ブ』であり、その名の通り確かに恋愛がテーマの映画とも言える。ドイツ語版の題名を日本語に直訳すると、『そして毎日グラウンドホッグが挨拶する』となる。上映時間101分で笑える箇所も多く、気軽に見られる映画である。まだ見ていない方には是非お薦めしたい。以下ではこの映画の批評ではなく、これを手掛かりにして考えたことを書いていく。 
 次の段落からは映画の内容を一部含み「ネタバレ」になるので、くれぐれもご注意いただきたい。また日本語の字幕付きのDVDが手元にないので、引用の際には英語から適宜日本語に訳す。 
 
 自分の置かれた状況に不満を持ち、そして「毎日同じことの繰り返しだ」と嘆く人が別の世界に迷い込むという話は、SFものにはありがちなパターンである。この作品においては、主人公がある年の「2月2日の世界」から出られなくなる。この人物はその行事をテレビ番組でレポートするために、男性の同僚と女性の同僚との三人でこの町を訪れる。そして一人であるペンションに宿泊し、2月2日の朝6時にごく普通に起床する。一日を終えて眠り、目が覚める。すると、再び2月2日の朝6時の「世界」に戻っている。どうやら「2月3日の5時59分」の次に「2月2日の6時」が来るらしい。何度も経験する「2月2日」の記憶は維持され、そしてピアノの練習効果なども持続するが、肉体疲労や怪我などは次の「2月2日の6時」に回復する。ほとんど不老不死のようなものである。 
 今回は「物事を否定的に見る態度」について、次回は「同じような毎日を繰り返すこと」について取り上げる。 
 最初にこの男性の性格を確認しておく。「世間なんて馬鹿ばっかりだ。」(People are morons! )と言ってのけるし、同僚の女性からは「自己中心的というのがあなたの性格の最も特徴的なところよね」と批評される。自分には才能があり名声をつかむはずだと主張するものの、その女性からは「あなたは仕事の話はしないわよね」と指摘される。 
 次にこの女性の性格だが、乾杯する時には世界の平和を祈り、広大な海(ocean)よりも家族で乗るためのボートを選ぶタイプである。男性と正反対の性格ということであろう。 
 さて、何度も繰り返される「2月2日の世界」の中で、この男性は社会的規範を気に留めなくなる。何をしようがまた失敗しようが、どの道また「2月2日の6時」がやって来て、全て元通りになるからである。自分の周囲に対する否定的傾向がほぼ完成する。
 そして同僚の女性を口説こうとする。女性から「あなたは自分以外の人間を愛さない」と批判され、「いや、自分自身も愛してないよ」と受け返す。何度も失敗し、絶望する。挙句の果てには自殺を試みるが、何度繰り返しても全て無効となる。 
 主人公は他者を否定するとは言え、この女性にだけはそれができない。そして先の言葉に暗示されているように、逆に自分を否定する方向に進んだのだが、これでその女性以外の全てを否定することになった。ところが自分を何度滅ぼしても「2月2日の6時」に戻ってしまうので、自殺を諦める、つまり、自殺も否定することになった。またこの自殺には、自分と女性との人間関係を終わらそうとする意味もあった。したがって、この段階で自分を含めた全てに対する否定がほぼ完成する。 
 残るのは、そのようにありとあらゆるものの価値を否定すること自体を否定すること、すなわち、それらをこれまでとは別の方法で受け入れることだけである。ここで主人公の価値観が大きく転換することになるが、こういう時には周りに善人がいるかまたは悪人がいるかで精神的変化の方向がある程度決まる。この男性の周囲にいたのは小さな町の悪意のない人々と同僚の二人であり、そのうちの女性の方は善良さのかたまりのような人物である。この女性に対する恋愛感情も手伝って、この男性は女性の価値観の方向に接近し始める。
 さらにその後ではホームレスの老人の死にも立ち会う。この人はそれまでの主人公の判断基準からすると、恐らく最も無価値な人間であったはずである。そういう人物の老衰死に心の底から感情移入できたことから、主人公は人間一般を受けられるようになる。この出来事の後からは、これまで嫌っていた人も含めて、ありとあらゆる人を大事にするようになる。 
 こうした一連の出来事をきっかけとして、主人公は他人のために生きるようになる。人を助けることや、人が欲しいと思っているものを与えることのみを考える。 
 そもそも反復される「2月2日の世界」の中では、他人にはほとんど何も期待できない。どんなに相手に働きかけても次の「2月2日の6時」において全てがリセットされてしまう。こうして他者への愛は見返りを一切求めない愛の形を取った。
 もしその場所が大都会であったらまた話は変わったかもしれないが、実際は小さな町であり、さらに期間はわずか一日しかない。これでは社会的に活躍するというのは無理である。その代り一人一人に目を向けやすい。この「世界」に迷い込む前の段階では遠くを眺めて近くを疎かにするようなところがあったが、ひたすら自分の周囲を見守る人間へと変身した。最後はとうとうこの町で生きていくことを決意する。 
 自分の接する全ての人間を慈しみ、そして相手からはもはや何も欲しがらない。以前のように自分のその場限りの欲求の充足が第一で他者は二の次というのではなく、他者の喜びが自分の喜びとなる。自分に本当に必要なのかどうかも分からない広大な海を支配するよりも、自分と他人の乗るボートを守ること、つまり、他人を守り他人と自分との関係を守ることに専念する。男性の価値観は、その対極にあった同僚の女性の価値観に沿うものとなった。 
 主人公は自分と他者を区別した上で自分が他者の上に立っているかどうかを意識していたが、この場合は他者か自分を必ず否定することになる。「他者の喜びが自分の喜び」というあり方においては、互いに喜びを分かち合うので自他の区別が解消され、両方を受け入れることになる。
 最後に、この男性に人生のテーマとでも言うべきものがあった場合を考えてみる。繰り返される「2月2日の世界」の中でひたすらそれを追求することになりそうだが、自分のテーマと他者の幸せのどちらを取るかという問題が生じるのではないかと想像する。もちろんそのテーマが社会に貢献するものであれば矛盾しないかもしれない。 
 今回は結局人生の内容の話になったが、次回は人生の形式について考える。 

(5月10日の追記。題名及び一部の内容を変えました。)
(5月17日の追記。この男性の変化の根本的な原因は、自殺すらも諦めたところにあると考えるようになりました。それに応じて内容を一部変更しました。)  
(5月18日の追記。また一部を修正しました。)