世界時計

2016-03-29

第30回、個人旅行で飛行機にてベルリンに来る場合について、その1


 ベルリンはイースター休暇も終わり、そして日曜日に夏時間に入りました。日曜日の深夜2時になるときに時計を3時にセットするのですが、この結果日本との時差は7時間となりました。そろそろベルリン観光を考える人が増えてくる時期でもあり、これからしばらくはそういう方のための内容にしてみます。 
 日本からベルリンに来る場合、現時点では飛行機の直行便はありません。大体はフランクフルト経由になるでしょうが、とにかくある経由地からベルリンのテーゲル空港に到着することになります。 
 このテーゲル空港は様々な点で他の空港とは一味違うのです。
 本来ならばベルリンの南東の外れに新空港が完成し、その後でテーゲル空港は閉鎖される予定でした。何度かの変更がありましたが、2012年の6月には新体制に移行することになっていました。新空港はベルリンの中心部からは遠いので、西ベルリンの中心からタクシーで20分程度の距離にあるテーゲル空港の方が便利でいいなと個人的には思っていました。すると、新空港が開港する約4週間前に当たる5月の初旬に、その計画が突如延期になったのです。 
 テーゲル空港はと言うと、6月には全体が最終的に閉まる予定だったので、5月の段階で幾つかのお店ではシャッターがおり始めていました。ところがそれからしばらくして再オープンしたり、別の店が出来たりと、本来ならばありえない光景を目の当たりにしました。「苦笑」という言葉はこういう時のためにあるのだなと実感したものです。 
 一応この新空港は来年に開港予定ですが、それを信じる人はほとんどいません。これまでも何度も延期されてはその度ごとに改めて開港予定日が定められたという経緯があるため、「狼少年にはもううんざり」といった雰囲気です。隔年開催の「ベルリン国際航空宇宙ショー」が今年の6月にあるので、その頃にはまた新情報なり噂なりが出回るでしょうが、まさに「神のみぞ知る」といったところでしょう。 
 仮にも先進国ドイツの首都であるベルリンにそんなことがあるとは信じられないといぶかる方もいらっしゃるでしょうが、この町には結構このような「トホホ」な事例があるのです。こういうところもひっくるめて味わうというのがベルリンを楽しむ作法の一つと言えるでしょう。2011年にはお客様に対して、「次回ベルリンに来られるときには新空港を使われることになるでしょう」などと申し上げていました。そういう方とテーゲル空港で再会する場合には、「いや、色々ありまして」というセリフから会話が始まることもあります。 
 さて、こういった背景があるため、テーゲル空港のサービスには残念ながらかなりの制約があります。ベルリン州の財政的な問題があるので、この空港には最低限のメンテナンス費用以外はお金をかけられなくなっています。あとはもう、「お察しください」という言葉しかありません。取り敢えずここでのお買い物にはご期待しないでください。商品の種類も少ないですし、ここで買う意味はほとんどありません。エールフランス航空やKLMオランダ航空のエコノミークラスのチケットで日本に帰国する場合は、少なくとも2016年3月末の時点では、機械を使って自分で搭乗券の発券手続きを行うことになります。ポジティブに捉えるならば、サービスというものはお金のないところでは難しいという真理を学ぶ良い実例になったとも言えるでしょう。 
 ただし、ベルリン市民にとってはこういったことはそれほど問題にはなりません。まさかわざわざこの空港まで買い物に行くはずもなく、またドイツ語を理解できるならば指示に従って行動するだけです。それよりも何よりも、ベルリンの中心地から近いことの方がメリットとしては大きいです。さらに、この空港はとても小さいので、空港内の移動距離がわずかで済むということもあります。新空港は無ければ無いで困らないというのが多数派の意見ではないでしょうか。もっとも、この状態が続くとベルリン州の財政難はさらに深刻化し、特に2019年ぐらいから第二、第三の「トホホ」な事例が出てくるでしょう。 
 色々書いてきましたが、特に個人旅行の形でテーゲル空港にお越しの場合は、このような事情があるということをご理解いただいた方がいいでしょう。さらに補足するならば、最近は盗難が多くなっています。「スーツケースから10秒間手を離したら盗られると思ってください」とお伝えするようにしています。まあこれは大げさかもしれませんが、注意するに越したことはないでしょう。

2016-03-05

第29回、『裸の王様』について、その2

 前回はハンス・クリスチャン・アンデルセンによる『はだかの王様』の解釈を出したが、今回はそれを踏まえて考えたことを書く。詐欺師が出てくるだけあってこの物語には随所に論理のすり替えがあり、それに対応した各人物の心情の変化が描かれている。この流れを「正直な人が嘘つきと一緒に嘘をつくまでの過程」というテーマを通して見ていく。 
 前回も指摘したように、この作品については、イエスマンの家来の言葉を信じ込んで状況を判断できなくなる王様の物語という理解が一般的である。だが原作では王様も話の途中で布が存在しないことを自覚し、さらに最後まで嘘をつき通している。
 今回も前回と同様に、基本的には青空文庫版をテキストとしながら、私の持っているドイツ語版とネット上に見つかった英語版を参考にする。これからから引用する場合には前回同様、角カッコ([]のこと)を付ける。
  
 町の人々が自称布織職人である二人の詐欺師に騙されて良い評判を立てたのがそもそもの始まりであった。その上で、素晴らしい布ではあるものの、「自分にふさわしくない仕事をしている人と、バカな人にはとうめいで見えない布」の話が出回った。 
 もしこの話が本当ならば、その布を見ようとしたが駄目だったと言って残念がる人がいたはずである。町の人々の全てが異口同音に自称職人を素晴らしいと言っているなら、この時点で何かがおかしいのである。この二人が嘘つきでないと仮定する時に敢えて考えられるのは、その布がまだ宣伝の段階にあり人々がその実物に接していないという場合か、または実物を見せられた人の中に嘘つきがいる場合である。いずれにせよ、町での評判は判断基準にはなりえなかったのである。 
 ところが、町の人々というのは押しなべて正直者だと見なされる。正直者たちの間での評判がいいということから、その詐欺師も正直者であるかのような錯覚が生じる。正直者ならば彼らの作る布も本物であるに違いない。話が途中ですり替わっているのだが、王様が町の噂を鵜呑みにしたのはこのような理由からと思われる。そしてこれが全ての間違いの根本的な原因であった。 
 詐欺師に服を注文した王様は、仕事の進み具合を確認するためにまずは大臣を、そして役人を派遣する。その際には自称職人が詐欺師ではないと前提した上で、自分の家来の中で誰が布を見ることができるかと考え、賢くて有能で信頼のおける人物という観点のみを考慮している。 
 だが本来は、「自称布織職人が詐欺師かどうか」の見極めこそが第一に問われるべきであった。このときには話は変わる。「蛇の道は蛇」であり「毒を以て毒を制す」というが、プロ級の嘘つきかまたは詐欺についての知識や経験のある人が選ばれるべきであった。もっともそうすると今度はその判定者が王様に嘘の報告をするかもしれず、確かにこの人選には難しい面があった。いずれにせよ、詐欺師かどうかの判定には向かない人物が選抜されてしまった。 
 大臣にしろ役人にしろ、その二人の布織職人は詐欺師ではないと仮定し、自分には布は見えるはずだと固く信じていた。ところが布が見えない。本来ならばここで「布は存在するのか」という問題を考えるべきだったが、その代わりに自分の愚かさやまた仕事上の能力について自問自答を始める。好人物にありがちな話だが、問題が起きた場合は自分の落ち度をまず先に検討し、時には相手の側の問題に注意を払うことを忘れてしまう。特に今回は自分の名誉と仕事、つまり全人生がかかっているので、他人を気にする余裕がない。 
 ここで忘れてはならないのは、「二人は他のみんなには布が見えると思っていた」という点である。これまた好人物であるが故に、どうせ他の同僚も似たようなものだという不真面目な考えにはならず、自分だけが布を見ることができないものと判断してしまった。そこで、「布は存在する」と前提しながら、「それならば他の人にとってはどういう見え方になるのだろうか」と考えてしまった。 
 その詐欺師の側では大臣と役人を前にしながら実に巧みに話をすり替えていく。「布が見えるかどうか、そもそも存在するのかどうか」が核心なのだが、そこのところを一つ飛び越えて、大臣と役人のそれぞれに「そのデザインが良いかどうか」について質問する。それも、いかにもファッションに関心の無さそうなこの二人にである。自分は愚かで職務に相応しい能力も持たず、さらにデザインのことなどよくわからないという良心の呵責を二人の家来から引き出し、不安感を煽りながら、詐欺師たちは「布は存在するのかどうか」という問題を隠してしまった。 
 王様は事態を完全に誤解し、布は信頼すべき大臣と役人には見えても自分には見えないのだと受け取る。町の人にも自称布織職人にも見えているのだから、それこそこの世で唯一自分だけが見えないという気持ちかもしれない。だがもし正直に自分には布は見えないと言えば、その場で王様としての引退を宣言するようなものだ。とどのつまり王様は保身に走り、布を褒める。とは言え、ここまで追い込まれたらもう他に手はなかっただろう。王様はまさに政治的判断をして、見えないものを見えることにした。「布は存在する」というそこでの前提が正しかったら、とにかく他人の意見に合わせておくというその方針は正しかったかもしれない。 
 王様は二人の詐欺師に『王国とくべつはた織り士』という肩書を与え、その「布」で作った「服」を着てパレードに出る。町の人々はやはり自分の立場を守るために王様の服を称賛する。王様からすればそもそも町の人々のいい評判を頼りにして自称布織職人を信じたのである。ところが彼らにとっては王様がその服や自称職人を素晴らしいと見なしているのでその相手をしているだけである。この時点で王様の側と町の人々との間に騙し騙される関係が成立し、詐欺師は後ろに退く。 
 こうして全ての人が嘘つきになった。ここまでの彼らのスタンスは、「他人にはその服が見えているはずだ」というものである。 
 彼らはひとえに保身のために見えないものを見ていることにしている。ところがそれに該当しないのが小さな子供である。正直に服が見えないと発言することにより自分に何が起こるかを理解していないようであり、そもそもまだ仕事をしていないから失業の心配もない。 
 子供は、[「でも、王様は何も着ていないよ。」]と言う。ここから大人たちは微妙にスタンスを変え始める。町の人々は、自分のことは棚に上げながら、[「王様は何も着ていないぞ、あそこにいる小さな子供が言ってるのだが、王様は何も着ていないぞ。」]と触れ回る。そしてしまいには全員が「王様は何も着ていないぞ」と叫ぶ。大人たちは本音の部分では「自分の目に自信を持つスタンス」に変化した。しかし建前の上では、「他人がそう言っているので自分もオウム返しにそう繰り返しているだけだ」という保身のスタンスを継続している。 
 王様は人々の声を聞き、内心ではその通りだと同意する。つまり「自分の目に自信を持つスタンス」に転換する。もしここで王様自身も「王様は何も着ていないぞ」と言えばコメディである。次には詐欺師による「王様は何も着ていないぞ」という詐欺の自供が続き、彼らが牢屋に入ることになったかもしれない。 
 しかし王様がこの場面で何も着ていないことを認めたら、これまでとは全く反対の理屈から王様が愚かで王としての資格がないことが立証されてしまう。もはや服が存在しない場合でも、また存在していてなおかつ見えない場合でも、王様には破滅しか残されていない。したがって、事ここに至っては服が存在する振りを続けるしかない。町の人々が愚かであるかまたは仕事上の能力に欠けるのであり、自分だけがまともだとアピールする。つまり、表向きは、「その服は他人には見えないが自分には見えている」というスタンスを選んだのである。「他人に合わせる」というものから「他人と自分を区別する」という在り方への変化でもある。

 以上が、本来嘘をつかないはずの人々が嘘をつくようになるまでの過程である。こうして振り返ってみると、パレードの話の辺りから詐欺師が登場しなくなるところが面白い。大人たちがお互いを欺きあっているため、この人間関係においては服は存在していることになっている。このように詐欺師のもとを離れてこの服が自立して「存在」した時点で、それを取り囲む大人たちとの間に一つのシステムが出来上がっている。この人間関係から外れている小さな子供によってこのシステムは動揺するが、それでも王様の保身のためにはこの服は存在し続けなければならない。王様は心ならずも最後まで詐欺の片棒を担ぐ羽目になってしまった。 
 この論理展開について次回にさらに掘り下げようかとも考えたが、それはまた別な機会にする。とにかくこの話は予想外に面白かった。