世界時計

2015-04-13

第21回、新年の目標を振り返る

 十日から二週間というサイクルで書くことにしているが、少し期間が空いてしまった。あるまとまった内容を何回かに分けて出すことを予定しているが、これには時間がかかる。そこで今回は、本年初頭に立てた目標を振り返ってみることにした。一つ目が「八十点を取り続ける」、二つ目が「ベルリンで八百万(やおよろず)の神々を探す」である。
  
 まずは一つ目について反省してみる。そもそもの発端は、日常生活や事務作業に手こずる現状を変えようということだった。これらと対になるのは「一世一代の大勝負」に属するような話であり、また博士論文やガイド・通訳の業務、翻訳の仕事などでも「八十点ではなく百点を取る」べきものとしていた。
 請求書を早く出すことについては劇的な進歩を遂げた。何とも大げさな表現だが、我ながら生まれ変わったかのような気分だ。ただし、「八十点を取り続ける」というスローガンの貢献度は全体の半分だった。もう一つ重要だったのは、「請求書を出し終えるまでが業務である」という意識だった。自分の任務を果たすのは義務でも、請求書を出すのは義務ではないという考え方が自分の中にあった。このことに気づけたのが収穫だった。 
 掃除や整理整頓になると、実行しなくても困るのは自分だけであり、したがって依然として中々やる気にならない。何もしなくても「今日と同じ明日を迎えられる」。その時間を他のことに使おうとしたがる。それならそれでいっそのこと今の状態に心の底から満足すればいいのだが、完璧主義者のもう一人の自分が断固反対する。結局、「八十点を取り続ける」ではなく、all-or-nothingという基準になってしまう。 
 この二つの事例を比較すると、少なくとも私の場合は、「他者」がいるかいないかが重要になっていることが分かる。他人への迷惑にならない場合、「実行したくないという自分」と「完璧主義者の自分」という「二人の自分」の間の駆け引きになってしまう。「零点か百点のどちらかを取ることになるが、いずれにしても本当の満足感がない」という状態になる。
 ところが請求書の場合、私が出さないと相手先の経理処理を滞らせてしまう。義務は絶対に守らなければならない。先の「二人の自分」よりも「他者」の方が第一の基準になるため、「百点は必要ないが零点は取らない」ということになる。 
 ここまでの分析はできた。今はこれに基づいて新しい基準を幾つか立てた。そのうちの一つは、「仕事を実行する自分」と、「仕事を依頼する自分」もしくは「(スケジュール管理者という意味での)マネージャーとしての自分」とに分けるというものである。自分のための仕事を他人に依頼されたかのように扱うのである。そして実行する段階では「八十点を取り続ける」という基準を採る。最近は論文や業務についてもこの考え方をするようになった。この結果についてはまた三カ月後ぐらいに振り返ることにする。 
 
 二つ目の「八百万の神々」の方は思ったよりも難しかった。例えば部屋の中にある一つ一つの物に「神」を見いだせたら自分の態度も変わるだろうという期待があったのだが、そもそも部屋の中に物が多過ぎる。「八百万の神々」という考え方を採用する場合、所有物は増やしにくくなるのではないか。例えて言うならば、一つの部屋に二、三百枚の絵を飾るような感じになるからである。また、きれいに片付くまではその全てを「神様」と見なすのは精神的に無理である。部屋にいるだけで全ての「神様」から「早く何とかしろ」と言われ続けるのは、余りにも辛すぎる。さらに、「神様」と見なす時点でall-or-nothingになりがちである。人間相手ならば「八十点」という考え方もあるが、相手が「神様」となると、「百点」を取ろうとするかもしくは諦めるかということになる。(もっとも、「八百万の神々」という考え方の本来の意味からは、そういう絶対的なallという発想は出て来ないのかもしれません。)とにかく当分は様子を見ることにした。 
 二月には神道に関する本を数冊日本から取り寄せた。少しずつ読み始めているが、色々な発見があった。この点についてはそのうちまとめていきたい。