世界時計

2015-02-27

第18回、情報社会における優越感と劣等感

 二月は他の月に比べて日にちが少ないことをすっかり忘れていて、まだ二、三日あるような気がしていた。最近は何となくではあるが毎月の10日、20日、30日当たりに出すことにしているので、ここら辺で一回出しておこうという気になった。 
   
 二、三年前からある文房具屋に通うようになった。初めて中に入ったのはたまたま店舗改装などに絡んで値下げをしていた時で、いい品が半額近くになっていたこともあり、何回か通った。その度にある店員とよく話すようになった。多分五十代位のドイツ人女性だが、毎回変わった物、面白い物を薦めてくれる。色々買っていくうちに、私はとうとうある万年筆を一本購入した。これは気にし過ぎかもしれないが、ボールペンのような日用品ならともかく、奢侈品扱いされる万年筆を買ったと人に伝える場合、色々な感情が交錯し得ると気付いた。
 万年筆の観点としては、値段やブランド名、見た目の美しさ、さらに書きやすさやその他の性能一般などがあるだろう。これらの全ての点をよく把握した上で入手し使用している場合には、「レベルの高い人」という評価を勝ち取るかもしれない。しかしこのうちの一つでも欠ける場合、「格好をつけたいだけで本物の値打ちは理解できない人」というレッテルを貼られるかもしれない。大袈裟に言うならば、情報社会における不幸である。 
 自分は他人よりも優れているという感情つまり優越感やその裏返しの劣等感などは、昔からあったはずだ。現代に特有なのは、「皆さんこのことを知っていましたか、知らない人は残念な人です」という形で、情報が発信され得ることだと思う。そしてこれらの情報を知った人は、知らない人に対して優越感を持とうと頑張ることになる。別の言い方をするならば、そういった感情とセットで提供された情報なので、人に自慢できるということを抜きにしては情報の価値が半減するのである。 
 そのような情報の価値が過度に強調される場合、ある商品を持たずまた使わないという人でも、その商品についての重要な情報を持っているなら、持っていて使っている人よりもその商品の本質を知っていると判断されることもある。最終的には、そのような情報を発信している人が物事の本質一般についてのルールを決めることにもなりかねない。この人達の実力についても、それぞれの商品についての的確な鑑識眼の部分に、優越感や劣等感を巧みに利用する能力が合わさっていることが多いのではないか。
 このような現状に対して、「情報に振り回されてはならない」という警鐘も絶えず鳴らされている。しかし、これらの情報そのものやその発信者の考えには正しい部分が含まれているため、話がややこしくなる。本来的には、「情報というよりも優越感・劣等感に振り回されてはならない」と言うべきだろう。ある商品の価格やブランド名を言い当てることができようができまいが、その美しさや使い心地などを理解できようができまいが、それを優越感や劣等感に結び付けなければいいのである。 
 そのような感情が「生じるかもしれない」という段階から「必ず生じる」という段階に移行する過程の一つは、次のようになる。 
 冠婚葬祭でのしきたりや法律などの社会的ルールについては、「これを知らないと問題になります」という形で情報提供されるのは正しい。しかし商品の購入やその享受の場合は個人の好みの問題であり、人それぞれである。ところが、「この点についてはこのような好みが多数派です」という具合に、好みの流行を社会的ルールであるかのように祭り上げておいて、「これに一致しない人は見下されても仕方ありません」というアナウンスを流すことがある。または、「ある商品の価値を把握することは、好みのような主観的な問題ではなくむしろ能力という客観的な問題なので、標準以下の人は見下されても仕方ありません」というアナウンスもあり得る。このような情報の味付けにより、人それぞれなどとは段々言っておれなくなる。
 これらを参考意見として受け取る分には、優越感や劣等感と直結しなくなるため、それほど害にはならない。しかし、「世の中にはこういう悪いことが起こり得る」という話は、「この悪いことは起こるのが当然なのだとあらかじめ覚悟しておこう」という具合に進展することがある。その結果として、「自分や他人が多数派からずれていたり、能力的に標準以下だったりする場合には、自分やその他者を見下すのが当然なのだ」と考えるようになると、優越感と劣等感が必然化する。こうなってしまうと精神的に歪んでくるのは火を見るよりも明らかだろう。 
 優越感や劣等感への対策として、そもそもそういう感情を持たないように努める人もいるだろうが、個人的には賛成できない。特に接客業などの場合は、人間の感情にどういったものがあるかを一通り知っておくことが要求されると言っていいぐらいではないか。自分や他人の感情がどういう条件の時にどう動くかをよくよく観察しておき、それに応じて自分を律するというのが一番いいと思うが、これについてはまた考えたい。取りあえず、情報の価値が重視されるにしたがって情報に一喜一憂しがちになり、それに伴って自分や他人を貶める(おとしめる)危険が高まることについては、注意すべきだろうと思う。

2015-02-22

第17回、『蜘蛛の糸』について、その3

 第15回で芥川版『蜘蛛の糸』を取り上げた時には一回限りにするつもりだった。しかしこれは甘かった。それを一度書き上げた後に、小松版『蜘蛛の糸』から振り返る必要が出てきた。これが第16回である。その後で第15回を読み直すうちに、この内容が二つに分かれた。一つは実際の『蜘蛛の糸』に対する理解についてで、よく読んでみるとこの作品中の御釈迦様はそんなに厳しくなかったことが明らかになった。もう一つはこの作品に対する普通のイメージについてであり、そして以下ではこれを取り上げる。

 まずは、第15回で提示した、芥川版『蜘蛛の糸』に内容的に近い作品の共通点をもう一度振り返る。 
1、ある人間が地獄やそれに近い場所に落とされている。 
2、「これを利用すればここから救われるかもしれない」と思わせるようなある特殊なチャンスが、神などから主人公へ与えられる。 
3、同じ境遇の他の人間がそのチャンスを同様につかもうとする。しかしそれによって主人公の権利が失われそうになる。 
4、主人公がそれに抗議するか邪魔をする。 
5、そしてその一度だけのチャンスは二度と来ない。 
 この救いの無さこそが『蜘蛛の糸』であるというのが通常の理解であろう。しかし第15回で指摘したように、実はこの作品はそこまで過酷ではなかったのだった。特に上記の第3点と第5点がその核心で、実は当作品においては蜘蛛の糸は他者と共有可能だったのであり、そしてカンダタには生前に何度もチャンスがあったことが読み取れる。
 今回は、敢えてその過酷な受け取り方をした場合に、『蜘蛛の糸』から何を学べるかを考えてみる。具体的には、上記の第3点を敢えて厳しく解釈する。つまり、自分の人生と他者の人生が本当に両立し得ない状況を考える。これでやっと『蜘蛛の糸』についての世間的な理解通りになる。また、死んだ後ではなく現実の人生における問題として考察する。この作品を自分の問題として読みやすくするためである。この時点で、地獄において蜘蛛の糸を昇るという設定はもはや当てはまらない。以下では上記の第1点から第5点までをこの条件で書き換えていく。 
 第1点から入る。地獄の話はとりあえず置いておくので、「現在の自分が本来のあり方からずれている」というところを出発点とする。自分の人生は不遇だと嘆く場合や、或いは荒れ狂う海の中に投げ出された場合などのことである。 
 第2点は、「そういう自分を本来のあり方に据えるチャンスを得る」ということにしよう。「やっと自分らしい生き方が出来るようになる」と心の底から思えるようなチャンスとか、嵐の海の中で一人用の浮き輪が見つかるというような場合である。
 第3点は、「同じ境遇の他の人間が、そのチャンスを同様につかもうとし、自分と他者のどちらかだけが成功する」とする。実はこの時点で、「他者との対立」というもう一つの不幸が加わってしまう。また、その際に両者はほぼ同じ条件に立っていることも注目すべき点である。どちらが救われてもおかしくないのである。 
 ここで『蜘蛛の糸』の設定を振り返っておく。カンダタは蜘蛛の糸を見た時に誰にも知らせなかった。さらに、カンダタに続いて登って来る罪人たちは、カンダタに一言も許可を取っていない。どちらの場合でも、作品中の御釈迦様は罰を与えていない。敢えてこの二つから一つの結論を引き出すならば、自分の物と他人の物との区別にこだわることを御釈迦様が求めていないということである。「このチャンスはこの自分の物だが、それを他人に知らせるべきだろうか」とか、「あのチャンスはあの人の物だが、自分の物にしていいのだろうか」と考えることは要求されていない。この部分については今回の設定でも継承する。もっとも、芥川龍之介自身はこれについてはそんなに意識していなかった可能性もあるが。 
 それでは第4点に入るが、ここからが本題である。他者に抗議をしたらおしまいである。すなわち、自分の物と他人の物との違いを明確にさせ、それを根拠にして相手を排除してはならないのである。今回は条件を厳しくしてあるので、御釈迦様の意に沿い慈愛の心を持って相手と接しても、結局チャンスをつかめるのは一人しかいない。
 このような場合が実際に起きれば、両者はひたすら対立することが予想される。勝者の方は「自分を本来のあり方に据える」、つまり救われることになり、敗者は「本来のあり方からずれている」ままで、なおかつそこから抜け出るチャンスは永遠にない。これが第5点である。 
 あまり考えたくもない状況である。またこの程度の漠然とした設定で答えを出すのは不可能のように思われる。しかし、『蜘蛛の糸』に登場する御釈迦様を基準にして考えるならば、一応の結論は出そうだ。以下では、どのような場合ならばこの御釈迦様は納得するかという問いについて考える。 
 作品中では、「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心」が問題視されていた。したがって、両者が慈悲の心を持たないと御釈迦様は納得しない。その例を考えてみよう。対立しあう双方とも「現在の自分が本来のあり方からずれている」という状況である。自分の不幸を通して相手の不幸を理解するというのが、「相手に対する慈悲の心」が生じるパターンとして考えられる。御釈迦様の納得を基準とするならば、この慈悲心を両者が持つことが必要となる。
 ここから出る一つ目とは、「自己犠牲により相手を救う」という流れである。ウィキペディアの「ジャータカ」という項目には、「釈迦の前世である王子は、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った」とある。芥川龍之介がこの話を念頭に置いていたかどうかはまったくわからないが、自己犠牲というのは解決法として有力だろう。 
 この場合、「両者が対立しあう」という二つ目の不幸に対する解決策にはなっている。また、本当に「この場面では自己犠牲しかないのだ」という意識に達したのならば、実際にそうすることによって、「自分を本来のあり方に据え」たことにもなる。誠に辛い状況だが、そういった観点から見て、この自己犠牲は一応解決策と呼び得る。このように考えてみると、仏教の影響の強かった宮沢賢治による『銀河鉄道の夜』には、そういう犠牲的精神の持ち主が多数出て来ることに思い当たる。 
 それでは勝利を譲られた側はどうかというと、もし自分のことばかりを考えてしまったならばまさに無慈悲そのものであり、御釈迦様から見捨てられる。自分が助かったことの喜びと同時に、相手に対する慈愛の気持ちを一生持ち続けることが必須となるだろう。
 両者が敢えて戦い合う場合はどうか。ここで大切なのは、どちらが勝つにしろ負けるにしろ、御釈迦様にとっては、「ある哀れな人間」が哀れでなくなり、「もう一人の哀れな人間」が哀れのままだということである。したがって、どちらも基本的には同条件である。 
 戦いとは両者の違いを明確にすることだが、『蜘蛛の糸』の御釈迦様の場合、慈悲の心だけを問題にしているようだ。すると、無慈悲な人間が負ける形の戦いを御釈迦様は選ぶだろう。これが具体的にどういう形になるかはわからないが、慈悲心以外の観点での優劣は、この作品の御釈迦様にとっては無意味だろう。 
 そして両方とも慈悲にあふれるならば、おみくじで決めるのが一番いいのかもしれない。ウィキペディアの「おみくじ」という項目によると、これは「神社・仏閣等で吉凶を占うために引く籤である。」「古代においては国の祭政に関する重要な事項や後継者を選ぶ際に神の意志を占うために籤引き(くじびき)をすることがあり、これが現在の神籤(みくじ)の起源とされている」とある。これによって対立はなくなる。また、両者が「これが一番の解決法だ」と納得するならば、結果はどうあれ、おみくじによって自分の「本来のあり方」になるとも言える。
 ところで、結局このときも上記の自己犠牲のときと本質的には同じ話になっていることがわかる。おみくじを引く前に双方が自己犠牲の覚悟を持つからである。どちらが本当にそれを実行するかが、当事者それぞれの直接的な意思によるか(自己犠牲)、間接的に決まるか(おみくじ)の違いに過ぎない。 
 ここで一つ補足しておく。ずるい人の場合は、「あなたはここで負けた方がいいのです」というように丁寧な言葉で他者に自己犠牲を促すことがある。作品中の御釈迦様を基準とするならば、これはまさに地獄行きだろう。ところが、この言葉が私利私欲からではなく美しい心根から出てくることもある。この場合に本当はどちらなのかの判断は難しい。これは『蜘蛛の糸』という作品から考えるというよりも、状況判断能力を鍛えることに帰着する。 
 『蜘蛛の糸』に出て来る御釈迦様を基準にしたため、慈悲心だけが問われ、そして各自の自己犠牲の気持ちが御釈迦様の納得には不可欠という結果となった。もちろん実際に生きるか死ぬかの状況になったら話は変わるだろう。以上の中身は、あくまでも『蜘蛛の糸』をきっかけにして考えた場合の結論に過ぎない。
 第5回から第7回までは関口次男著の『ファオスト抄』を取り上げた。自分の生き方を全うするためならば悪魔と行動を共にし、地獄行きも憚らないファウストと、それを見守る作品中の神。『蜘蛛の糸』の御釈迦様とはまさに対照的である。ドイツの文豪ゲーテによるキリスト教的影響の強い『ファウスト』と、日本の文豪芥川龍之介による仏教的側面を持つ『蜘蛛の糸』とまとめることは、一応可能ではないかと思う。この対比についてはまたいつか考えてみたい。(とは言え、『ファウスト』では道徳的問題はひとまず脇に置かれ、『蜘蛛の糸』では例えば神道的な側面が見えないなど、単純な比較はやはり無理でしょうが。)

2015-02-07

第16回、『蜘蛛の糸』について、その2

 前回は芥川龍之介作『蜘蛛の糸』を取り上げた。その前の時点でウィキペディアによりこの作品のパロディである小松左京作『蜘蛛の糸』の存在を既に知っていた。そしてその後すぐにYouTubeにその朗読があるのを知り、聴いてみた。正直なところ、この作品はパロディなので、そんなに真面目に聴いていなかった。 
 芥川作『蜘蛛の糸』についての自分の考えをまとめた後でもう一度聴いてみたのだが、色々考えることがあった。「追記」の形で補足するには分量が多くなるので、回を改めてまとめることにした。但し、現時点で私はこの小松作『蜘蛛の糸』をまだ読んでいない。したがってあくまでもその朗読を「聴いた」限りで考えたことを書いていく。ここからはいわゆる「ネタバレ」になるので、小松版『蜘蛛の糸』を先に読みたい方はご注意いただきたい。

 その小松版の冒頭には、小松の中学時代の芥川版『蜘蛛の糸』への感想がある。これを聴いた私は、「やはり中学生相手の授業でもこの作品を控えたのは正解だった」と実感した。中学生とはいっても「頭のいい生徒」や「勘の鋭い生徒」はいる。そして高校生ともなれば尚更である。ある作品の難しさに一部の生徒だけが気づくような場合には、授業が無意味な盛り上がり方をすることがある。(生徒が本来考えるべきこととは違う中身を一部の生徒だけが議論するという状態です。)「君の考えていることは間違いではないが、本当に大事なのはそこではない」などと言ってみても、実際にはまだ子供なので、「先生はどうして自分を認めてくれないのだろう」という具合に話がこじれてしまうこともある。こうして書いているだけで「あんなこともあったな」と色々な場面が浮かんで来るが、まさに「トホホ」であった。 (もっとも、これを書いた後で、自分自身も中学・高校時代は無茶苦茶だったと思い出しました。)
  
 最初にこの作品を聴いた時は、芥川版『蜘蛛の糸』における御釈迦様に腹を立てた小松が、自作のパロディにおいてその御釈迦様を地獄に落とす部分が最も印象に残った。(「腹を立てた」とは言っても、これもパロディの一部でしょうが。)今回もう一度聴き直したのだか、この小松版には芥川版における盲点と呼べるような観点が幾つかあることに気づいた。以下ではそれを指摘していく。
 一つ目は、どんな罪人でも極楽で過ごしていれば御釈迦様のようになるというものである。しかしこれはあくまでもパロディとして成り立つ話だろう。そういう場合もあれば、そうでない場合もある。 
 二つ目は、御釈迦様が極楽に行く人間と地獄に行く人間を分けること自体が無慈悲であるとする観点である。これは「そもそも慈悲とは何か」という問題に直結し、思想的には極めて重要である。但し、芥川版は児童向文芸誌『赤い鳥』に掲載されたのである。子供たちに向かって、「どんな罪を犯しても、たとえ慈悲の心が無くっても、みんな揃って極楽行きです」とは言えないだろう。極楽に行くための条件を設定することはやはり不可欠だった。子供は芥川版を読むべきで、子供以外はそのパロディとしての小松版を読んでもよいという棲み分けの問題である。 
 最後は、「慈悲の心からではなく賢さから、カンダタが下にいる罪人達に怒鳴らない」という観点である。芥川版では御釈迦様の持つ慈悲心をカンダタが共有していれば合格である。小松版では御釈迦様の持つ理解力の共有だけでカンダタは極楽に行く。(もっとも慈悲の心や御釈迦様の御心などへの理解力には欠けるのですが。)言うなれば、「慈悲の心と頭のよさの対立」である。 
 ここで面白いのは、芥川版『蜘蛛の糸』においても、カンダタが機転が利いて沈着冷静だったら極楽に行けたのではないかとも読めるところである。その意味でこれは芥川龍之介の見落としていた観点とも受け取れる。しかし、この作品の設定を吟味するならば、芥川版の御釈迦様はやはりこういうカンダタを認めないだろうと考えざるを得ない。パロディの小松版では、罪人たちが押し寄せることに慌てた御釈迦様が足を滑らせて地獄に落ちてしまうが、芥川版ならばあっさり糸が切れるだけだろう。そもそもカンダタは「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」と紹介されている。このような「慈悲心の無い頭のよさ」で極楽に行けるなら、そもそも地獄に落とされてはいなかっただろう。この作品でカンダタが改めて何かを試されるとしたら、それは本当の慈悲心を持っているかどうかだったに違いない。
 それではこの点について確認して行く。事の発端は、カンダタが小さな蜘蛛と出会った際に、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ」と言って助けてやったことにある。御釈迦様は「それだけの善い事をした報(むくい)」として、蜘蛛の糸を垂らしたのである。この中にはもちろん他の生命を慈しむという側面がある。同時に、蜘蛛が生きようが死のうがカンダタ自身の利益にとってはどうでもいいことでもある。ここにはさらに二つの側面がある。一つは、カンダタが自分の私利私欲とは関係なしに蜘蛛を助けたという面である。蜘蛛を助けると後で自分にとって都合のいいことがあるというような下心は、カンダタには無かった。もう一つは、蜘蛛がカンダタの人生の邪魔をしないので助けただけかもしれないという面である。すると、カンダタが蜘蛛を殺さなかったのは愛情からか、それとも無関心からなのかという問いが立つ。 
 こうして見ると、カンダタが地獄で蜘蛛の糸を見た時に、あの蜘蛛のことを全く思い出さなかったことが問題になってくる。カンダタの人生における唯一の善行が、カンダタ自身にとって意味を持っていなかったのである。蜘蛛を助けた時には他者への慈愛という観点もわずかにあったのだろう。だがカンダタの人生全体から振り返る場合、蜘蛛を慈愛の心から助けたというよりも、無関心から放っておいたという方がより実情に即していたということである。蜘蛛への慈悲そのものについても単なる気紛れに過ぎなかったということになる。だから蜘蛛のことを思い出さなかった時点で、蜘蛛に「善い事をした報(むくい)」の価値は、気紛れであっても善行ではあったという程度のものになっただろう。
 ここで注釈を入れると、「こういうとき」のために自分のした善い行いを全て覚えておくというのでは、本物の慈悲の心にはならないだろう。『君たちはどう生きるか』風に言うならば、自分の中にあるよい気持ちを育てていくことが大切だということではないか。
(小松左京なら、カンダタの慈悲などその程度のものだということは、御釈迦様ならば最初からわかっていたはずだと言うところでしょうが。それにしても、この方が既にお亡くなりになっていることを今回改めて確認したのですが、実に残念なことだと思いました。前回の文章は芥川龍之介から、今回は小松左京から学ばせていただいたようなものです。)
 話を戻すと、カンダタの慈悲心はまずは蜘蛛の糸を見た時に試された。そして下から来る罪人たちに怒鳴った時点で、カンダタは生まれてから死んでそして地獄に落とされてからも、終始一貫して、本物の慈悲心を持ったことのない人間であるということになってしまった。
(芥川龍之介自身がこのように考えていたかどうかは怪しいです。例えば、作品中の御釈迦様には別にカンダタを試すという気もなく、そして単にカンダタの振る舞いが無慈悲に見えたので瞬間的に糸をお切りになっただけという具合にも読めます。前回の文章も含めて、こういう解釈もあるかなというぐらいにお受け取りください。) 
 以上が小松版を通して芥川版を振り返った結果である。今回出てきた「慈悲の心と頭のよさの対立」という部分は、次回に取り上げるかもしれないし、まったく別の機会にするかもしれない。あまりにも大きい問題なので、今の時点ではまだ判断がつかない。