世界時計

2015-02-22

第17回、『蜘蛛の糸』について、その3

 第15回で芥川版『蜘蛛の糸』を取り上げた時には一回限りにするつもりだった。しかしこれは甘かった。それを一度書き上げた後に、小松版『蜘蛛の糸』から振り返る必要が出てきた。これが第16回である。その後で第15回を読み直すうちに、この内容が二つに分かれた。一つは実際の『蜘蛛の糸』に対する理解についてで、よく読んでみるとこの作品中の御釈迦様はそんなに厳しくなかったことが明らかになった。もう一つはこの作品に対する普通のイメージについてであり、そして以下ではこれを取り上げる。

 まずは、第15回で提示した、芥川版『蜘蛛の糸』に内容的に近い作品の共通点をもう一度振り返る。 
1、ある人間が地獄やそれに近い場所に落とされている。 
2、「これを利用すればここから救われるかもしれない」と思わせるようなある特殊なチャンスが、神などから主人公へ与えられる。 
3、同じ境遇の他の人間がそのチャンスを同様につかもうとする。しかしそれによって主人公の権利が失われそうになる。 
4、主人公がそれに抗議するか邪魔をする。 
5、そしてその一度だけのチャンスは二度と来ない。 
 この救いの無さこそが『蜘蛛の糸』であるというのが通常の理解であろう。しかし第15回で指摘したように、実はこの作品はそこまで過酷ではなかったのだった。特に上記の第3点と第5点がその核心で、実は当作品においては蜘蛛の糸は他者と共有可能だったのであり、そしてカンダタには生前に何度もチャンスがあったことが読み取れる。
 今回は、敢えてその過酷な受け取り方をした場合に、『蜘蛛の糸』から何を学べるかを考えてみる。具体的には、上記の第3点を敢えて厳しく解釈する。つまり、自分の人生と他者の人生が本当に両立し得ない状況を考える。これでやっと『蜘蛛の糸』についての世間的な理解通りになる。また、死んだ後ではなく現実の人生における問題として考察する。この作品を自分の問題として読みやすくするためである。この時点で、地獄において蜘蛛の糸を昇るという設定はもはや当てはまらない。以下では上記の第1点から第5点までをこの条件で書き換えていく。 
 第1点から入る。地獄の話はとりあえず置いておくので、「現在の自分が本来のあり方からずれている」というところを出発点とする。自分の人生は不遇だと嘆く場合や、或いは荒れ狂う海の中に投げ出された場合などのことである。 
 第2点は、「そういう自分を本来のあり方に据えるチャンスを得る」ということにしよう。「やっと自分らしい生き方が出来るようになる」と心の底から思えるようなチャンスとか、嵐の海の中で一人用の浮き輪が見つかるというような場合である。
 第3点は、「同じ境遇の他の人間が、そのチャンスを同様につかもうとし、自分と他者のどちらかだけが成功する」とする。実はこの時点で、「他者との対立」というもう一つの不幸が加わってしまう。また、その際に両者はほぼ同じ条件に立っていることも注目すべき点である。どちらが救われてもおかしくないのである。 
 ここで『蜘蛛の糸』の設定を振り返っておく。カンダタは蜘蛛の糸を見た時に誰にも知らせなかった。さらに、カンダタに続いて登って来る罪人たちは、カンダタに一言も許可を取っていない。どちらの場合でも、作品中の御釈迦様は罰を与えていない。敢えてこの二つから一つの結論を引き出すならば、自分の物と他人の物との区別にこだわることを御釈迦様が求めていないということである。「このチャンスはこの自分の物だが、それを他人に知らせるべきだろうか」とか、「あのチャンスはあの人の物だが、自分の物にしていいのだろうか」と考えることは要求されていない。この部分については今回の設定でも継承する。もっとも、芥川龍之介自身はこれについてはそんなに意識していなかった可能性もあるが。 
 それでは第4点に入るが、ここからが本題である。他者に抗議をしたらおしまいである。すなわち、自分の物と他人の物との違いを明確にさせ、それを根拠にして相手を排除してはならないのである。今回は条件を厳しくしてあるので、御釈迦様の意に沿い慈愛の心を持って相手と接しても、結局チャンスをつかめるのは一人しかいない。
 このような場合が実際に起きれば、両者はひたすら対立することが予想される。勝者の方は「自分を本来のあり方に据える」、つまり救われることになり、敗者は「本来のあり方からずれている」ままで、なおかつそこから抜け出るチャンスは永遠にない。これが第5点である。 
 あまり考えたくもない状況である。またこの程度の漠然とした設定で答えを出すのは不可能のように思われる。しかし、『蜘蛛の糸』に登場する御釈迦様を基準にして考えるならば、一応の結論は出そうだ。以下では、どのような場合ならばこの御釈迦様は納得するかという問いについて考える。 
 作品中では、「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心」が問題視されていた。したがって、両者が慈悲の心を持たないと御釈迦様は納得しない。その例を考えてみよう。対立しあう双方とも「現在の自分が本来のあり方からずれている」という状況である。自分の不幸を通して相手の不幸を理解するというのが、「相手に対する慈悲の心」が生じるパターンとして考えられる。御釈迦様の納得を基準とするならば、この慈悲心を両者が持つことが必要となる。
 ここから出る一つ目とは、「自己犠牲により相手を救う」という流れである。ウィキペディアの「ジャータカ」という項目には、「釈迦の前世である王子は、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った」とある。芥川龍之介がこの話を念頭に置いていたかどうかはまったくわからないが、自己犠牲というのは解決法として有力だろう。 
 この場合、「両者が対立しあう」という二つ目の不幸に対する解決策にはなっている。また、本当に「この場面では自己犠牲しかないのだ」という意識に達したのならば、実際にそうすることによって、「自分を本来のあり方に据え」たことにもなる。誠に辛い状況だが、そういった観点から見て、この自己犠牲は一応解決策と呼び得る。このように考えてみると、仏教の影響の強かった宮沢賢治による『銀河鉄道の夜』には、そういう犠牲的精神の持ち主が多数出て来ることに思い当たる。 
 それでは勝利を譲られた側はどうかというと、もし自分のことばかりを考えてしまったならばまさに無慈悲そのものであり、御釈迦様から見捨てられる。自分が助かったことの喜びと同時に、相手に対する慈愛の気持ちを一生持ち続けることが必須となるだろう。
 両者が敢えて戦い合う場合はどうか。ここで大切なのは、どちらが勝つにしろ負けるにしろ、御釈迦様にとっては、「ある哀れな人間」が哀れでなくなり、「もう一人の哀れな人間」が哀れのままだということである。したがって、どちらも基本的には同条件である。 
 戦いとは両者の違いを明確にすることだが、『蜘蛛の糸』の御釈迦様の場合、慈悲の心だけを問題にしているようだ。すると、無慈悲な人間が負ける形の戦いを御釈迦様は選ぶだろう。これが具体的にどういう形になるかはわからないが、慈悲心以外の観点での優劣は、この作品の御釈迦様にとっては無意味だろう。 
 そして両方とも慈悲にあふれるならば、おみくじで決めるのが一番いいのかもしれない。ウィキペディアの「おみくじ」という項目によると、これは「神社・仏閣等で吉凶を占うために引く籤である。」「古代においては国の祭政に関する重要な事項や後継者を選ぶ際に神の意志を占うために籤引き(くじびき)をすることがあり、これが現在の神籤(みくじ)の起源とされている」とある。これによって対立はなくなる。また、両者が「これが一番の解決法だ」と納得するならば、結果はどうあれ、おみくじによって自分の「本来のあり方」になるとも言える。
 ところで、結局このときも上記の自己犠牲のときと本質的には同じ話になっていることがわかる。おみくじを引く前に双方が自己犠牲の覚悟を持つからである。どちらが本当にそれを実行するかが、当事者それぞれの直接的な意思によるか(自己犠牲)、間接的に決まるか(おみくじ)の違いに過ぎない。 
 ここで一つ補足しておく。ずるい人の場合は、「あなたはここで負けた方がいいのです」というように丁寧な言葉で他者に自己犠牲を促すことがある。作品中の御釈迦様を基準とするならば、これはまさに地獄行きだろう。ところが、この言葉が私利私欲からではなく美しい心根から出てくることもある。この場合に本当はどちらなのかの判断は難しい。これは『蜘蛛の糸』という作品から考えるというよりも、状況判断能力を鍛えることに帰着する。 
 『蜘蛛の糸』に出て来る御釈迦様を基準にしたため、慈悲心だけが問われ、そして各自の自己犠牲の気持ちが御釈迦様の納得には不可欠という結果となった。もちろん実際に生きるか死ぬかの状況になったら話は変わるだろう。以上の中身は、あくまでも『蜘蛛の糸』をきっかけにして考えた場合の結論に過ぎない。
 第5回から第7回までは関口次男著の『ファオスト抄』を取り上げた。自分の生き方を全うするためならば悪魔と行動を共にし、地獄行きも憚らないファウストと、それを見守る作品中の神。『蜘蛛の糸』の御釈迦様とはまさに対照的である。ドイツの文豪ゲーテによるキリスト教的影響の強い『ファウスト』と、日本の文豪芥川龍之介による仏教的側面を持つ『蜘蛛の糸』とまとめることは、一応可能ではないかと思う。この対比についてはまたいつか考えてみたい。(とは言え、『ファウスト』では道徳的問題はひとまず脇に置かれ、『蜘蛛の糸』では例えば神道的な側面が見えないなど、単純な比較はやはり無理でしょうが。)

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