世界時計

2015-02-07

第16回、『蜘蛛の糸』について、その2

 前回は芥川龍之介作『蜘蛛の糸』を取り上げた。その前の時点でウィキペディアによりこの作品のパロディである小松左京作『蜘蛛の糸』の存在を既に知っていた。そしてその後すぐにYouTubeにその朗読があるのを知り、聴いてみた。正直なところ、この作品はパロディなので、そんなに真面目に聴いていなかった。 
 芥川作『蜘蛛の糸』についての自分の考えをまとめた後でもう一度聴いてみたのだが、色々考えることがあった。「追記」の形で補足するには分量が多くなるので、回を改めてまとめることにした。但し、現時点で私はこの小松作『蜘蛛の糸』をまだ読んでいない。したがってあくまでもその朗読を「聴いた」限りで考えたことを書いていく。ここからはいわゆる「ネタバレ」になるので、小松版『蜘蛛の糸』を先に読みたい方はご注意いただきたい。

 その小松版の冒頭には、小松の中学時代の芥川版『蜘蛛の糸』への感想がある。これを聴いた私は、「やはり中学生相手の授業でもこの作品を控えたのは正解だった」と実感した。中学生とはいっても「頭のいい生徒」や「勘の鋭い生徒」はいる。そして高校生ともなれば尚更である。ある作品の難しさに一部の生徒だけが気づくような場合には、授業が無意味な盛り上がり方をすることがある。(生徒が本来考えるべきこととは違う中身を一部の生徒だけが議論するという状態です。)「君の考えていることは間違いではないが、本当に大事なのはそこではない」などと言ってみても、実際にはまだ子供なので、「先生はどうして自分を認めてくれないのだろう」という具合に話がこじれてしまうこともある。こうして書いているだけで「あんなこともあったな」と色々な場面が浮かんで来るが、まさに「トホホ」であった。 (もっとも、これを書いた後で、自分自身も中学・高校時代は無茶苦茶だったと思い出しました。)
  
 最初にこの作品を聴いた時は、芥川版『蜘蛛の糸』における御釈迦様に腹を立てた小松が、自作のパロディにおいてその御釈迦様を地獄に落とす部分が最も印象に残った。(「腹を立てた」とは言っても、これもパロディの一部でしょうが。)今回もう一度聴き直したのだか、この小松版には芥川版における盲点と呼べるような観点が幾つかあることに気づいた。以下ではそれを指摘していく。
 一つ目は、どんな罪人でも極楽で過ごしていれば御釈迦様のようになるというものである。しかしこれはあくまでもパロディとして成り立つ話だろう。そういう場合もあれば、そうでない場合もある。 
 二つ目は、御釈迦様が極楽に行く人間と地獄に行く人間を分けること自体が無慈悲であるとする観点である。これは「そもそも慈悲とは何か」という問題に直結し、思想的には極めて重要である。但し、芥川版は児童向文芸誌『赤い鳥』に掲載されたのである。子供たちに向かって、「どんな罪を犯しても、たとえ慈悲の心が無くっても、みんな揃って極楽行きです」とは言えないだろう。極楽に行くための条件を設定することはやはり不可欠だった。子供は芥川版を読むべきで、子供以外はそのパロディとしての小松版を読んでもよいという棲み分けの問題である。 
 最後は、「慈悲の心からではなく賢さから、カンダタが下にいる罪人達に怒鳴らない」という観点である。芥川版では御釈迦様の持つ慈悲心をカンダタが共有していれば合格である。小松版では御釈迦様の持つ理解力の共有だけでカンダタは極楽に行く。(もっとも慈悲の心や御釈迦様の御心などへの理解力には欠けるのですが。)言うなれば、「慈悲の心と頭のよさの対立」である。 
 ここで面白いのは、芥川版『蜘蛛の糸』においても、カンダタが機転が利いて沈着冷静だったら極楽に行けたのではないかとも読めるところである。その意味でこれは芥川龍之介の見落としていた観点とも受け取れる。しかし、この作品の設定を吟味するならば、芥川版の御釈迦様はやはりこういうカンダタを認めないだろうと考えざるを得ない。パロディの小松版では、罪人たちが押し寄せることに慌てた御釈迦様が足を滑らせて地獄に落ちてしまうが、芥川版ならばあっさり糸が切れるだけだろう。そもそもカンダタは「人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊」と紹介されている。このような「慈悲心の無い頭のよさ」で極楽に行けるなら、そもそも地獄に落とされてはいなかっただろう。この作品でカンダタが改めて何かを試されるとしたら、それは本当の慈悲心を持っているかどうかだったに違いない。
 それではこの点について確認して行く。事の発端は、カンダタが小さな蜘蛛と出会った際に、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ」と言って助けてやったことにある。御釈迦様は「それだけの善い事をした報(むくい)」として、蜘蛛の糸を垂らしたのである。この中にはもちろん他の生命を慈しむという側面がある。同時に、蜘蛛が生きようが死のうがカンダタ自身の利益にとってはどうでもいいことでもある。ここにはさらに二つの側面がある。一つは、カンダタが自分の私利私欲とは関係なしに蜘蛛を助けたという面である。蜘蛛を助けると後で自分にとって都合のいいことがあるというような下心は、カンダタには無かった。もう一つは、蜘蛛がカンダタの人生の邪魔をしないので助けただけかもしれないという面である。すると、カンダタが蜘蛛を殺さなかったのは愛情からか、それとも無関心からなのかという問いが立つ。 
 こうして見ると、カンダタが地獄で蜘蛛の糸を見た時に、あの蜘蛛のことを全く思い出さなかったことが問題になってくる。カンダタの人生における唯一の善行が、カンダタ自身にとって意味を持っていなかったのである。蜘蛛を助けた時には他者への慈愛という観点もわずかにあったのだろう。だがカンダタの人生全体から振り返る場合、蜘蛛を慈愛の心から助けたというよりも、無関心から放っておいたという方がより実情に即していたということである。蜘蛛への慈悲そのものについても単なる気紛れに過ぎなかったということになる。だから蜘蛛のことを思い出さなかった時点で、蜘蛛に「善い事をした報(むくい)」の価値は、気紛れであっても善行ではあったという程度のものになっただろう。
 ここで注釈を入れると、「こういうとき」のために自分のした善い行いを全て覚えておくというのでは、本物の慈悲の心にはならないだろう。『君たちはどう生きるか』風に言うならば、自分の中にあるよい気持ちを育てていくことが大切だということではないか。
(小松左京なら、カンダタの慈悲などその程度のものだということは、御釈迦様ならば最初からわかっていたはずだと言うところでしょうが。それにしても、この方が既にお亡くなりになっていることを今回改めて確認したのですが、実に残念なことだと思いました。前回の文章は芥川龍之介から、今回は小松左京から学ばせていただいたようなものです。)
 話を戻すと、カンダタの慈悲心はまずは蜘蛛の糸を見た時に試された。そして下から来る罪人たちに怒鳴った時点で、カンダタは生まれてから死んでそして地獄に落とされてからも、終始一貫して、本物の慈悲心を持ったことのない人間であるということになってしまった。
(芥川龍之介自身がこのように考えていたかどうかは怪しいです。例えば、作品中の御釈迦様には別にカンダタを試すという気もなく、そして単にカンダタの振る舞いが無慈悲に見えたので瞬間的に糸をお切りになっただけという具合にも読めます。前回の文章も含めて、こういう解釈もあるかなというぐらいにお受け取りください。) 
 以上が小松版を通して芥川版を振り返った結果である。今回出てきた「慈悲の心と頭のよさの対立」という部分は、次回に取り上げるかもしれないし、まったく別の機会にするかもしれない。あまりにも大きい問題なので、今の時点ではまだ判断がつかない。

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