世界時計

2015-01-27

第14回、電話関係やスマホのトラブルについて

 本当は三日前ぐらいの段階でこの第14回を出そうとしていたが、テーマの選択に迷い、以下に書くトラブルなどもあり、少し遅れてしまった。 
 前回書いた二つの目標については今のところまずまずである。「八十点を取り続ける」ということについてはかなり自分の中で徹底できている。これは日常生活などだけでなく仕事の部分でも必要だと思い始めているが、そのことについてはまた別な時に書く。「ベルリンで八百万(やおよろず)の神々を探す」については、日本から本を数冊取り寄せることにした。ウィキペディアではもう限界だ。 

 ホロスコープのサイトなどによると、コミュニケーションを司る水星がただ今見かけ上の逆行をしているということから、意思疎通や通信手段にトラブルや修正があるという時期になっているらしい。それだからという訳ではないだろうが、十日ぐらい前からもの凄い状態になった。時間をかけて色々努力して来たが、その中にはドイツもしくはベルリンならではのこともあるので、ここにまとめておく。 

 電話会社を約十年振りにドイツ・テレコムに戻した。契約日は昨年の八月七日になっている。てっきり翌月ぐらいには変更できるのだろうと高を括っていたのだが、実に甘かった。これまで使ってきた電話番号をキープするには前の会社との引継ぎが重要になるので、少なくとも数か月かかるとのことだった。そしてやっとこの一月上旬に変更手続きが正式に完了した。これ自体が十分予想外だったがそれ程ひどい話と言うほどでもない。そして新しい装置を入手したが、忙しかったのでしばらくそのままにした。この時点で固定電話とファックスとインターネットが使えなくなったが、スマートフォンがあれば大体カバーできるので焦ってはいなかった。 事の始まりは先週の土曜日の夜。スマホの盗難にあった。これには凹んだ。しかし旅行業をしていることもありトラブルについては慣れている。日曜日ではあったが、中央駅の警察署ならば日曜祝祭日関係なく警察が対応してくれるだろうと予想した。そしてスマホの保証書を持って訪ねてみるとやはりうまく行った。事情を説明し盗難届を提出した。 
 それからスタバに行ってパソコンでインターネットにアクセスし、Googleのアカウントやメールのパスワードを変更。これをしないとスマホから色々なところにアクセスされてしまうところだったが、結局実害はなかった。 
 そして電話会社に連絡。まずはそのスマホに装着していたSIMカードを閉鎖してもらった。犯罪に使われる可能性があったが未然に防げた。これは知らなかったが、15ユーロ出せば新しいSIMカードが送られ、番号自体はそのまま維持できるとのことだった。それはやっと今日郵送されてきた。 
 盗まれたスマホには盗難時の対応を含む二年間保証をかけていたので、警察に発行してもらった書類を購入時の家電量販店に提出。購入金額の40パーセント相当分を返還してもらうことになった。 
 もちろん二度とこういうことのないようにと願うばかりではあるが、不幸中の幸いと言える部分もあった。盗まれたスマホには破損部分があり、画面の大きさに対する不満もあった。保障関係の書類を提出したアレクサンダー広場にあるメディア・マルクトでスマホを見ていたら、欲しかった大画面の製品がほとんど半額で売られていた。画面が大きすぎるというまさにこの理由で売れ行きが良くなかったらしい。そして160ユーロぐらいする専用の付属品もスマホとの同時購入ならば30ユーロでいいということになった。お蔭でいい下取りになったとポジティブに考えることにしている。この文章を書き終えた後でそのセッティングに取り組む。 
 さて、頼みのスマホがこうなってしまったために先週は固定電話のセッティングを試みた。今回は驚くことが幾つかあった。第一に、これまでの装置の大半を変更する必要が出たことである。 
 これが実に厄介な結果を伴った。うちの部屋は玄関口に電話線が来ていて、廊下を通って居間までケーブルを引かなければならない。引っ越して来た時にはその居間のところのドア枠の斜め下にドリルで穴をあけてケーブルを通したものの、装置だけでなくケーブルも新しくなったので、その穴を拡大する必要が出てきたのである。ドイツでは壁に穴をあけたりすることはまったく問題ないのだが、どうも日本的な感覚が残っているためにこれをやる度ごとに心が痛む。それでも穴を広げようとしたのだが、どうもうまく行かず、挙句の果てにはドリルが故障した。そこでクーダム通りにあるテレコム・ショップに常駐している技術者に相談したところ、新しい装置を薦められた。玄関口のところに一つをセットし、居間の方にもう一つをセットすることにより、電力用の配線を経由してその二つをつなぐらしい。Devoloという会社の製品だが、これまた今日やっとそれが届いたので、スマホのセッティングの後に試してみる。(結局これはうまく行きませんでした。以下の「二月三日の追記」を参照。) 
 さて、第二に驚いたことは、最初にパソコンとルーターをケーブル接続して基本的な操作を実施しないと、電話すらかけられないということである。単にコードをしかるべき場所につないだだけではダメなのである。最早パソコンなしには何もできない時代が到来したと実感した。(一つ付け加えると、このルーターのマニュアルの構成には辟易しました。例えて言うなら、ある建物を説明する時に、その建物の各部屋の配置の説明から入り、その部屋ごとの意味を明らかにし、そして各部屋に行くためには建物全体の入場口からどう進むべきかを図解し、最後にその入場口について説明するような形です。全体像を把握するまでは決してスタートさせないという強い意思が感じられましたが、ここまで極端なものはこれまで見たことがありません。) 
 第三に、ISDNの電話機が使えなくなったということもある。そのためアナログの電話機を新たに購入した。当初予定に比べてかなり費用がかさんだ。(また補足すると、この電話機は、通話は可能であっても留守番電話の機能に不具合が見つかりました。クーダム通りにあるSaturnという家電量販店で買ったので今日はそこで交換して来ましたが、もういい加減うまく行くことを願っています。) 
 まあこれで電話は何とかなるだろう。インターネットもできるようになっている。上記のdevolo社製装置のセッティングが完了すれば、居間でインターネット経由でテレビも観られるはずだ。残るのはファックスである。昨日はこの接続に一時間かかった。HPAll-In-Oneタイプの機種だが、これまでは電話線を使用していたのを今度はワイヤレス・ランで接続することにした。ところがここでも問題が生じた。電話番号を三つ持っているが、この割り振りがうまく行かないのである。マニュアルを読み直すしかなさそうだ。 
 ドイツに来た当初はパソコンのトラブルの度に必要性に駆られてドイツ語のマニュアルを読み、それがきっかけとなってドイツ語力が進歩したものだ。それでもマニュアルは読まないで済むものならば出来るだけ読まずに済ませたい。ところが、ドイツでは必要書類は全て読むことが要求されていると言っていい。だからとても疲れる。 
 一件の経過を振り返るに、日本だったらこうはならないだろうなと思う。でも日本でならばどうなるのかもわからなくなって来ている。郷に入っては郷に従うしかない。これも異文化理解の一つだろう。 

(二月三日の追記) 
 問題が解決する前にこれを出したのは失敗でした。仕方ないので経過を書いていきます。 
 All-In-One タイプのプリンターの場合、機種によってはルーターとのケーブル接続無しにはファックスとして使用できないことが明らかになりました。(このことがあるのでこの追記を出しました。)残念ながらDevolo社製の装置を返品することにしました。Amazon経由の購入なので、DHL Retoureという形でこれから送ります。 
 ドリルをBauhausで直してもらい、そしてドア横の穴を大きくすることはできました。ケーブル接続は可能となり、ファックスとしても機能しそうです(但しまだ実験は済んでいません)。 
 アナログの電話機については、メーカーサイドとのメールでのやり取りの結果、返品することにしました。今回はTelekom推奨のスピードフォンを購入しました。 
 あとは電話番号の割り振りの問題と、テレビをネット接続で視聴できるどうかです。 
 通信関係で最近あったいい話と言えば、Hotspotを使えるようになったことぐらいでしょうか。これで帰国時にも場所によっては無料でネット接続ができそうです。これは旅行業の人にとってはいいシステムかと思います。

2015-01-17

第13回、新年に際しての二つの目標

 遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。
  
 昨年の九月から始めたこのブログも早いもので五ヶ月目に突入した。十日に一回という頻度を守ることを最優先で考えているが、まずまず順調な方だろう。 
 普通は「ベルリンについての最新情報」などを取り上げるのだろうなと思いつつも、敢えてそれについては自重している。そもそも「最新情報」というものにあまり興味がないのだが、他のベルリン在住の方々から様々な情報発信が既になされていることも大きい。 
 とにかく自分の一番書きたいことを書くようにしている。これまでずっと考えてきたことについてまとめてみたが、そのこと自体が改めて考えを深めることのきっかけにもなった。発表するかどうかを躊躇するのは、内容が私的すぎる場合、賛否両論が予測される場合、もう少し後の時点で書くべきかどうかを悩む場合などである。

 この数ヶ月はフロートについて取り上げたが、そのお蔭もあり、ここ最近は自分自身を見つめ直すことばかりやっている。その結果これまで気が付かずにいたことやその原因などが自分の中でどんどん明らかになっていった。大袈裟かもしれないが、人生の転機を迎えたようだ。 
 昨年は幾つかのきっかけがあった。このブログの開設自体もその一つであり、フロートによって自分に対する見方が変わったこともそうである。他にもあと二、三ある。結果として、人生の後半に入ったという意識になった。『ファウスト』の話について考えたことにより、余計に人生を前半と後半に分けようとしているのかもしれない。 
 だがこのことについて具体的に書いていくとかなり私的なことばかりになる。そこで今回は、最近心がけていることについて出せる範囲で出してみる。

 一つ目が、「八十点を取り続ける」である。 
 もともと私には悪い癖があり、いつもではないにしても、百点満点のテストに例えるときに百点もしくは二百点を取ろうとするようなところがある。人生最大の勝負というようなときならばともかく、日常生活でこれをやるとマイナスが大きい。また、試験時間ギリギリまで答案を出さないような状態に陥ることも多々ある。そこで、合格の最低ラインとしての八十点が取れる見通しがついた段階で答案を提出し、問題が起こればその都度直して再提出するという形に切り替えるのである。したがって、八十点を「取る」のではなく八十点を「取り続ける」というところに意味がある。八十点を取れなければやり直し、取ったら取ったで次の段階でまた八十点を狙うのである。 
 これに関しては特に日々の掃除や事務作業などを想定している。こういった事柄については昔から苦手なのだが、その中でも請求書の作成は死ぬほど辛い。「これから三日間は請求書のことだけを考える」と誓い、それ以外はやらないということにしても、何もできずに三日間を過ごしてしまうこともある。これは多分誰にも理解してもらえないだろうし、「そんなの早くやれば」と言われるだけであり、そしてその通りなのだが、でもとにかく駄目だった。そこでこの「八十点を取り続ける」という考え方を導入したのだが、やっと取り掛かれるようになった。 
「百点の出来栄えの請求書」を半ば諦めるような状態で提出するので、相手先の担当者に対する良心の呵責が大きい。しかし、ドンドン遅くなる方がもっと迷惑なのは間違いない。そもそも請求書の場合、合格最低ラインの「八十点の請求書」であればいい。だからこれは純粋に気持ちの問題に過ぎないのである。また、遅くなると請求書に添付すべき領収書がどこかに行ってしまい、これを見つけるのがまた大変なのである。でも一枚や二枚見つからなくても「八十点の請求書」ではある。それでいいことにする。それにこだわって時間を無駄にする方が余程不経済だと割り切ることにする。

 二つ目が、「ベルリンで八百万(やおよろず)の神々を探す」である。 
 海外在住の日本人にはよくある話だが、日本を離れることによってかえって日本が気になっている。東京で生活していた時には神道などには全く興味がなく、八百万の神々についても単なるアニミズムの一種だろうと想像して済ませていた。だが、数ヶ月前から、ここにこそ日本的思想の特殊性があるような気がしてきたのである。昨年はサッカー会場で日本人サポーターがゴミを拾って帰ったというだけで海外でも話題になったようだが、例えばこういう「日本人らしさ」の根底に「八百万の神々」の発想があるのではないかという仮説を立てている。 
 しかし、今自分はドイツのベルリンにいる。ここはキリスト教の国である。そして私が研究しているヘーゲルはベルリン大学の総長にもなったが、一元論の哲学を提唱した。こういったこともあって、これまではベルリンに住みながら一神教や一元論とは何かということばかり考えていた。 
 一神教の国ドイツで一元論のヘーゲルを研究する自分自身は、多神教的傾向の強い日本人の一人なのである。このギャップについて追求してみようという気になった。また、汎神論的傾向があると言われるヘーゲル哲学と八百万の神々との一致を見てみようという観点もある。そこでこのベルリンの中で八百万の神々を見つけてみることにしたのである。もっとも、これまで仏教関係者との出会いはあっても神道の方々とはほとんど会ったことがない。したがってまず初めに自己流でアニミズムをやってみることにした。(ベルリンが一神教の町と言えるかというと、これは難しいです。ウィキペディアによると、「60%以上のベルリンの住民は宗教を登録しておらず、ベルリンは『欧州の無神論者の首都』と表現されている」そうです。また移民も多く、イスラム教徒が主となるトルコ人は全体の約5.5パーセントを占めるそうです。取りあえずベルリン自体は多文化の町とは言えるでしょう。) 
 現実的な成果としては、掃除をする意欲が出たことが挙げられる。ゴミそのものや必要のないものを家の中に置いておくよりも、さっさと捨てて別な物体に変化させた方が「浮かばれる」だろうと考えるようになったのである。また、自分自身が神々の中で生きているという感覚が出てきた。キリスト教的には「自分は神から見られている」という発想になるらしいが、これと「自分は神々と共に生きている」というのはまた別の話である。何だか自分の周囲がにぎやかになったような気さえする。(もっともこれは心霊現象などの話ではありません。)

 さて、この二つがどこまで続くか。いずれにせよ、請求書を早く提出するということについてはここに誓う。ただ、ここで力みすぎるとまた元の木阿弥なのである。このこと自体も「八十点を取り続ける」ということで考える。

2015-01-01

第12回、2014年12月31日のベルリンの情景

 1715分にベルリン・フィルに到着。これからサイモン・ラトル指揮によるコンサートが始まる。(敬称は略します。) 
 指揮者の後ろ側で中々理想的な席だ。二曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第23番。自分の知っている曲だとやはり喜びも大きい。ピアニストはMenahem Pressler。失礼ながら私は名前も知らなかったが、今回のコンサートではこの人がクローズアップされている。そもそも私は音楽の専門的なことは全く分からず、ただ楽しむだけである。この曲についてはラジオやCDなどで複数の演奏を何度も聴いていたので、演奏途中で次にどんな音が来るかは何となくイメージできる。第一楽章と第二楽章はこれまで聴いたことのある演奏に近い。だが第三楽章に入るところからは、これまでと違うという印象を持つ。(もっとも、音楽に詳しい方がどう批評されるかはわかりません。)生まれて初めてこの曲を聴いているような気分になる。先入観を捨ててこのピアニストとサイモン・ラトルとベルリン・フィルによる名人芸に没入し続ける。いい思い出になったと感謝する。 
 19時前にコンサート終了。ロビーでジュースや発泡酒が振る舞われる。折角なのでグラスで二杯飲んだが真っ赤になる。いつものコンサートやオペラの時よりも華やいだ装いが目立つ。その場にいた友人・知人と談笑する。そしてそこを出る。食事をしてからブランデンブルク門を見に行くことにする。 
 ベルリン・フィルはポツダム広場とブランデンブルク門の中間辺りに位置する。この界隈は大晦日ということで部分的に歩行者天国になっている。まずポツダム広場にあるソニー・センターに向かう。気温は3度程度でこの数日では温かい方だ。同センターにある「フジヤマ」とドイツ人から呼ばれている屋根の下には、クリスマスツリーのデザインをシンプルにしたような、または円錐形の上端を切り取ったような形をした、高さ数十メートルの青い光のオブジェがある。ベルリンのクリスマス関連のサイトによると昨年に続いてのことらしいが、「星の魔法(Sternenzauber)」というコンセプトがあるそうで、多分それに基づくと思われる衣装の女性によるショーが行われている。そこをさらに通り過ぎる。花火が鳴りまくり白い煙が立ち込め、火薬臭い。大晦日のベルリンはどこでもこんな感じだ。 
 2030分ぐらいにここ数年ベルリンで流行っているVAPIANOというイタリアンのチェーン店に到着。いつも以上に込んでいて入場制限をしている。店内に入って列に並び、目の前でカルボナーラを調理してもらう。結果的に年越し蕎麦ならぬスパゲティを食べたことになる。 
 2130分ぐらいにソニー・センターに戻り、スターバックスに入店。いつもはせいぜい23時までなのに今日は深夜の3時まで開けるのかと驚く。二階に席を取ると、前面の大きい窓ガラス越しに例の青いオブジェとその周囲にある電飾の付いた数本のクリスマスツリーが見える。(下に写真あり。)店内はというと、数人から成るグループやアベック、そして子供連れの家族などが目につく。人種は様々。何となく一年を振り返ろうという気になる。今年もよくスタバで本を読んだり翻訳の仕事をしたなと思い出す。 
 2230分ぐらいに店から出てブランデンブルク門を目指す。ベレビュー通りを越えてレンネ通りに入り、エーベルト通りに到着。世が世ならばここには冷戦時代のいわゆる「ベルリンの壁」があり、またそれより前の時代には都市の城壁もあったらしい。人混みが激しい。本当はここから北側に歩いて4、5分程度のところにブランデンブルク門があるのだが、警察車両により道路が封鎖されている。門の真西となるまさにその場所にステージがある。そこから西に向かって数キロ先に戦勝記念塔があり、そこまでの道路を6月17日通りと呼ぶが、ここがパーティ会場となるのが毎年の恒例である。だからこの近くに通行規制があることは予想の範囲にある。特別その会場に行きたいわけでもないので、ブランデンブルク門の東側にあるパリ広場に行ってその門を眺めることにする。歩き煙草ならぬ歩き爆竹や歩きねずみ花火をする人がいるので、少し用心しながら歩く。 
 ヒトラーの最後の防空壕跡の前を通ってイギリス大使館のところに出るが、ここも通行止めだ。ロシア大使館の裏側を通りさらに東側に進み、そこから通り一つ北側にあるウンター・デン・リンデンという有名な道路を目指す。東西に延びるこの通りの東側には昔の王宮跡があり、現在その王宮の建物を復活させようと大々的な工事が実施されている。そして西側にはブランデンブルク門がある。 
 23時ぐらいにそのウンター・デン・リンデンに出る。コーミッシェ・オーバーというオペラ座とアエロ・フロートの建物の間のところである。だが、ここから西側方面、つまり、パリ広場の方向がまたもや警察によって立ち入り禁止とされている。この意味がわからない。とにかく人でごった返している。丁度その群衆の上空を狙うかのように斜めの角度で花火が打ち上げられる。パーンと音がして赤や青などが一色だけというシンプルなパターンがほとんどだ。加えて心臓に響くような爆音も時折ある。ところが、皆ニコニコしながらその場所で封鎖が解けるのを待っている。ここは日本ではないのである。 
 情報を集めようかという気になる。スマホで検索すると、B.Z.というベルリンの新聞には、「世界最大の大晦日パーティに関する全てのインフォメーション」とある。「深夜には11分間に6000発の花火が打ち上げられる」とか、「260人の芸能人がステージのプログラムに参加する」とある。しかし、今自分のいるこの場所に封鎖があるという情報はない。そこでベルリン市交通局(BVG)のサイトで確認すると、ポツダム広場駅からブランデンブルク門駅に地下鉄で到着可能となっている。それが本当ならばまさにパリ広場に出られるので、それほど期待はしないが一応試すことにする。「どうして今この場所から立ち去ろうとするのか」という驚きの顔が並ぶ中、人波をかき分けてその場所から脱出する。 
 多分2340分ぐらいにその場所を離れ、先ほどとほぼ同じところを逆方向に進みながら再びポツダム広場に向かう。さっきよりも凄まじい混雑となっている。その途中で警官を見つけたのでブランデンブルク門駅は開いているかと尋ねると、「いや、全て閉鎖されている」との返事。やはりそうかと思いつつ、それでもポツダム広場に向かう。そこの地下鉄の駅に到着して確認すると、ブランデンブルク門駅においては、電車は止まらずに通過してしまうようだ。予想はしていたが、やはりBVGの情報が間違っていることが確定する。(後からドイツの放送局ZDFのサイトで調べたところ、S-Bahnからは、21時過ぎの段階でパーティ会場への道路が通行止めになったというツイッターが出たそうです。) 
 駅から外に出ると、丁度カウントダウンが始まる。そして「ウォー」という周囲の声とともに新年を迎える。抱き合ったりスマホで数人で自撮りをしたり、見知らぬ人同士でハッピー・ニュー・イヤーと言い合ったり、絵に描いたような新年の光景である。レストランの店員が制服姿のまま花火に火を点けている。ブランデンブルク門の真上やその前にあるティアーガルテンという森林公園の上空に、それまでとは色の多彩さや規模の点でレベルの違う花火が上がり始める。これがその6000発なのだろう。
 レンネ通りとエーベルト通りの交差する場所、それも道路の真ん中が、一般市民による花火の打ち上げ基地と化している。色の点では相変わらず単調で火薬の白煙の中を火花が飛び交うだけのようなものだが、「ヒュルルルー」、「バチバチバチ」、「シュルルルーパン」、「ズドン」と鳴り続ける。そして足元では時折、割れたビール瓶が転がるときの「チャリチャリチャリ」という音がする。パトカーや救急車のサイレンの音がそれらに加わる。帽子をかぶっているから熱くないのか、火の粉を浴びながら次の花火を準備する人もいる。たまにロケット花火が超低空飛行をすると笑い声が起こる。大多数はそれらを遠巻きに眺めているが、中には郵便ポストの上で立ち上がったり、街灯によじ登ったりして見物する人もいる。日本人の目から見れば、暴動でも起きたのかというような光景である。南ドイツのフライブルクからベルリンに引っ越して来た最初の年には、こういう場合に身の危険を感じたものだと思い出す。しかし今ではビクビクするよりも「ベルリンらしいな」という気持ちの方が勝る。
 深夜0時30分頃に、ブランデンブルク門の真横にあるステージへの封鎖が解除され、やっとのことで到着。スタバを出てから2時間かかったことになる。ステージの正面の辺りからカラフルな光線が飛び交い、巨大なモニターにはDJらしき人が映し出されている。6月17日通りは2時ぐらいまではこの調子だろう。 
(その後知人のところに向かい軽くお祝いをしました。反対側すなわちブランデンブルク門の東側にあるパリ広場も同様に0時半ぐらいに封鎖が解けていたようで、そして封鎖をするという事前予告はなかったとのことです。ベルリンの人口自体は350万人程度ですが、この日も昨年同様100万人以上がこのパーティに集まったらしいです。)
  
 ということで、7時間以上に渡って色々な意味でのベルリンを満喫した。まずまず楽しかった。




 (スタバの二階から窓ガラス越しに見る青い光のオブジェ)