世界時計

2015-01-17

第13回、新年に際しての二つの目標

 遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。
  
 昨年の九月から始めたこのブログも早いもので五ヶ月目に突入した。十日に一回という頻度を守ることを最優先で考えているが、まずまず順調な方だろう。 
 普通は「ベルリンについての最新情報」などを取り上げるのだろうなと思いつつも、敢えてそれについては自重している。そもそも「最新情報」というものにあまり興味がないのだが、他のベルリン在住の方々から様々な情報発信が既になされていることも大きい。 
 とにかく自分の一番書きたいことを書くようにしている。これまでずっと考えてきたことについてまとめてみたが、そのこと自体が改めて考えを深めることのきっかけにもなった。発表するかどうかを躊躇するのは、内容が私的すぎる場合、賛否両論が予測される場合、もう少し後の時点で書くべきかどうかを悩む場合などである。

 この数ヶ月はフロートについて取り上げたが、そのお蔭もあり、ここ最近は自分自身を見つめ直すことばかりやっている。その結果これまで気が付かずにいたことやその原因などが自分の中でどんどん明らかになっていった。大袈裟かもしれないが、人生の転機を迎えたようだ。 
 昨年は幾つかのきっかけがあった。このブログの開設自体もその一つであり、フロートによって自分に対する見方が変わったこともそうである。他にもあと二、三ある。結果として、人生の後半に入ったという意識になった。『ファウスト』の話について考えたことにより、余計に人生を前半と後半に分けようとしているのかもしれない。 
 だがこのことについて具体的に書いていくとかなり私的なことばかりになる。そこで今回は、最近心がけていることについて出せる範囲で出してみる。

 一つ目が、「八十点を取り続ける」である。 
 もともと私には悪い癖があり、いつもではないにしても、百点満点のテストに例えるときに百点もしくは二百点を取ろうとするようなところがある。人生最大の勝負というようなときならばともかく、日常生活でこれをやるとマイナスが大きい。また、試験時間ギリギリまで答案を出さないような状態に陥ることも多々ある。そこで、合格の最低ラインとしての八十点が取れる見通しがついた段階で答案を提出し、問題が起こればその都度直して再提出するという形に切り替えるのである。したがって、八十点を「取る」のではなく八十点を「取り続ける」というところに意味がある。八十点を取れなければやり直し、取ったら取ったで次の段階でまた八十点を狙うのである。 
 これに関しては特に日々の掃除や事務作業などを想定している。こういった事柄については昔から苦手なのだが、その中でも請求書の作成は死ぬほど辛い。「これから三日間は請求書のことだけを考える」と誓い、それ以外はやらないということにしても、何もできずに三日間を過ごしてしまうこともある。これは多分誰にも理解してもらえないだろうし、「そんなの早くやれば」と言われるだけであり、そしてその通りなのだが、でもとにかく駄目だった。そこでこの「八十点を取り続ける」という考え方を導入したのだが、やっと取り掛かれるようになった。 
「百点の出来栄えの請求書」を半ば諦めるような状態で提出するので、相手先の担当者に対する良心の呵責が大きい。しかし、ドンドン遅くなる方がもっと迷惑なのは間違いない。そもそも請求書の場合、合格最低ラインの「八十点の請求書」であればいい。だからこれは純粋に気持ちの問題に過ぎないのである。また、遅くなると請求書に添付すべき領収書がどこかに行ってしまい、これを見つけるのがまた大変なのである。でも一枚や二枚見つからなくても「八十点の請求書」ではある。それでいいことにする。それにこだわって時間を無駄にする方が余程不経済だと割り切ることにする。

 二つ目が、「ベルリンで八百万(やおよろず)の神々を探す」である。 
 海外在住の日本人にはよくある話だが、日本を離れることによってかえって日本が気になっている。東京で生活していた時には神道などには全く興味がなく、八百万の神々についても単なるアニミズムの一種だろうと想像して済ませていた。だが、数ヶ月前から、ここにこそ日本的思想の特殊性があるような気がしてきたのである。昨年はサッカー会場で日本人サポーターがゴミを拾って帰ったというだけで海外でも話題になったようだが、例えばこういう「日本人らしさ」の根底に「八百万の神々」の発想があるのではないかという仮説を立てている。 
 しかし、今自分はドイツのベルリンにいる。ここはキリスト教の国である。そして私が研究しているヘーゲルはベルリン大学の総長にもなったが、一元論の哲学を提唱した。こういったこともあって、これまではベルリンに住みながら一神教や一元論とは何かということばかり考えていた。 
 一神教の国ドイツで一元論のヘーゲルを研究する自分自身は、多神教的傾向の強い日本人の一人なのである。このギャップについて追求してみようという気になった。また、汎神論的傾向があると言われるヘーゲル哲学と八百万の神々との一致を見てみようという観点もある。そこでこのベルリンの中で八百万の神々を見つけてみることにしたのである。もっとも、これまで仏教関係者との出会いはあっても神道の方々とはほとんど会ったことがない。したがってまず初めに自己流でアニミズムをやってみることにした。(ベルリンが一神教の町と言えるかというと、これは難しいです。ウィキペディアによると、「60%以上のベルリンの住民は宗教を登録しておらず、ベルリンは『欧州の無神論者の首都』と表現されている」そうです。また移民も多く、イスラム教徒が主となるトルコ人は全体の約5.5パーセントを占めるそうです。取りあえずベルリン自体は多文化の町とは言えるでしょう。) 
 現実的な成果としては、掃除をする意欲が出たことが挙げられる。ゴミそのものや必要のないものを家の中に置いておくよりも、さっさと捨てて別な物体に変化させた方が「浮かばれる」だろうと考えるようになったのである。また、自分自身が神々の中で生きているという感覚が出てきた。キリスト教的には「自分は神から見られている」という発想になるらしいが、これと「自分は神々と共に生きている」というのはまた別の話である。何だか自分の周囲がにぎやかになったような気さえする。(もっともこれは心霊現象などの話ではありません。)

 さて、この二つがどこまで続くか。いずれにせよ、請求書を早く提出するということについてはここに誓う。ただ、ここで力みすぎるとまた元の木阿弥なのである。このこと自体も「八十点を取り続ける」ということで考える。

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