世界時計

2014-11-07

第7回、『ファオスト抄』について、その3

 前回までにおいて、関口存男(せきぐちつぎお)の『ファオスト抄』そのものについての考えを大体まとめた。今回のテーマは、文学作品中の人物であるファウストの生き方を現実の人間の生き方に適用するための条件とは何かである。(以下にある鍵カッコの中は引用部分であり、旧仮名遣いや旧漢字、古い表現は断りなく変更します。難読語には丸カッコで読みを示すこともあります。)
 関口によると、ゲーテの功績とは「ファオスト主義」を「『人間』というものの最高理想の一つ」として立てたことだった。「Faust主義なるものの悲壮な男々しさは、人間完成のためには敢然としてこの『この世ながらの地獄をも当然の景物として笑って一身に引き受ける』という気構えにあるのである。」
 関口は「Faustの野心」を以下のように説明している。「博士が求めているのは、むしろ『人生の深み』である、「生活の高潮」である。[途中略]要するに人間として味わえる限りの楽苦を味わい、人間としての心の奥に眠っている感情の鍵盤を、最高のキイから最低のキイに至るまで、そのありとあらゆる音色をありとあらゆる可能な順序に結合して嵐の如くに叩き回し、そこから叩き出しうる限りの旋律を全部叩き出して、『人心のピアノ』というものは大体こんなものであって、これが最大限度である、これより以上はもうピアノを叩き割った場合の轟音より以外に出すべき音は無いというところまで叩いてみたい」。
 前回取り上げたようにファウストは、思考の人との対比という意味において、行動と感情の人に変身する。この引用部分ではその感情の側面について説明されている。確かにこの境地に至れば、「金や女や名誉」で十分満足してストップすることはないだろう。
 ここで話を整理する。ファウストの目的は「人間完成」であり、その手段は二つに分かれる。一つは客観的側面であり、知識もしくは思考である。もう一つは主体的側面であり、これはさらに行動と感情に分かれる。
 さて、ここから二つの論点が出て来る。「人間として味わえる限りの楽苦を味わ」うことは「人間完成」のための手段だが、これは行動と感情という側面に過ぎない。メフィストフェレスと出会う前のいわば知識や思考の時代がなければ片手落ちであり、「人間完成」にはならない。これが今回のテーマに対する一つ目の結論である。
 もう一つの論点は、フィクションと現実世界の関係の問題である。作品中ではファウストは常にメフィストフェレスに伴われているため、死や老化の問題すらも障害にならない。何度も幸運や幸福がやってきて、そして必ずその後には不運や不幸が続く。その際、メフィストフェレスにとって意味のない不運や不幸は皆取り除かれている。メフィストフェレスは作品内部に登場する神からほぼ全権委任を受けているので、ファウストと一緒に酒場に行こうとしたら土砂降りのため翌日に持ち越したなどという間抜けな話はありえない。ファウストとメフィストフェレスの双方にとって外的な事件が起こりえないという条件で、さらに肉体的な制約がないのだから、全てはファウストの内面的、精神的な問題に帰着する。「人心のピアノ」の音色を試し尽くすという観点から見て極めてよくできた設定である。
 ところが現実の人生ではそうはいかない。まず、不老不死の人間はいない。そんなに何度も幸運や幸福はやって来ない。自分は不運や不幸を受け入れるなどという考えでいたら、例えば無意味に病気にかかったり他人に財産を騙し取られたりして、その分だけ人生を空費することになるかもしれない。「この世ながらの地獄をも当然の景物として笑って一身に引き受ける」という場合に、本当にそれらの「地獄」をよりによって無条件に受け入れ続けていたら、あっという間に息絶えるだろう。
 したがって、有限な個人の人生では、ある特定の不運や不幸を受け止めることがそもそも可能なのかどうか、またそうすることが自分の理想を追求する上で本当に必要なのかどうかを見極めなければならない。そうでない不運や不幸は極力回避しなければならない。ある人がファウストの生き方を「『人間』というものの最高理想の一つ」と承認し、それを自分の身に実現させようとして様々な「楽苦を味わ」うというなら、まさにこの不運や不幸、さらに幸運や幸福を見極める能力が不可欠な条件になる。
 以上より、知識や思考の側面が欠ければ「人間完成」にはなりえず、自分の人生に何を受け入れるべきなのかの見極め無しには「人間完成」は不可能であるというのが結論である。 
 後者についてもう少し補足する。文学作品である『ファウスト』においては、どの幸不幸をファウストが受け入れるかの見極めはメフィストフェレスによってなされる。また、その受け入れの全てが可能であるようにメフィストフェレスが保証している。ところが良くも悪くも現実の人間にはメフィストフェレスが付いて来ないので、この点については各個人が自分で責任を取らなければならない。これは生き方の問題そのものであり、別な機会にまた考えたい。

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