世界時計

2014-10-25

第6回、『ファオスト抄』について、その2

 昔の自分が関口存男(せきぐちつぎお)の『ファオスト抄』のどこを気に入ったのかについてはすでに取り上げたので、今回は現在の自分がそれをどう考えるかをまとめる。昔と今とでそれについての解釈が変わったのだが、この違いを細かく説明するのではなく、現在の自分の解釈を出すことに重点を置く。(以下にある鍵カッコの中は引用部分であり、旧仮名遣いや旧漢字、古い表現は断りなく変更します。難読語には丸カッコで読みを示すこともあります。また、『ファオスト抄』に掲載されていない部分については森鴎外訳から引用します。) 
 ファウストとメフィストフェレスとの対決は、「Faust全編の総序ともいうべきProlog im Himmel(天上の序詞)に於ける、神と悪魔の賭けとも関係している。そのところで、Mephistophelesは、このFaustという人間をおれがこれから普通のくだらない凡人にして見せるといい、神は、そんなことは出来ないといい、いや出来る、出来ないの議論でもっていよいよ賭けということになるのである」。 
 ここには二つの人間像があり、関口はそれを以下のようにまとめている。「およそ悪とか不運とか誘惑とかいったようなものは、これに堪えうる人間と、堪ええない人間とがある。堪えうる人間にとっては悪は善をますます善ならしむる所以であるが、堪ええない人間にとっては、たとえば不運は彼をますますだらしなくする。つまり生地の問題である。鉄は打つほど固くなるが、馬の糞は打つほどぐにゃぐにゃにもなり、くさくもなる。しっかりした人間は不幸に会うほどますます骨が出来るが、くだらない人間は不幸に会うほどますます乱れてでたらめになる。神とFaustは前者と賭け、悪魔は後者と賭けたのである。」
 ここでの「しっかりした人間」とは何を意味するのかが長年の疑問だった。それではこの問題に入る。 
 第一部には、「一体この世界を奥の奥で統べているのは何か。それが知りたい。」(森鴎外訳)というファウストの独白がある。そしてまたメフィストフェレスとの契約の場面では、「しばし歩みをとどめてよ、まことやなれは美わし(しばしとどまれ、本当におまえは美しい)(Verweile doch, du bist so schön!)」という言葉もある。この世の最高の本質かまたは最高に美しい瞬間に出会うことがファウストの人生の終着点であることが暗示されている。 
 ファウストはこのような目標に到達するための手段を変えた。一生をかけて知識もしくは思考によってそれに到達しようとしてきたが、メフィストフェレスとの契約以降は、思考ではなく行動と感情の立場を採ったのである。
 他人の行動について思考すると、ある程度までは、自分がその行動をしたかのような効果が得られる。(例えば本当に月面に着陸したかのような意識になることも可能である。)他人の感情について思考すれば、これまたある程度までは、自分がその感情を持ったかのような効果が得られる。(例えば連戦連勝だったときのナポレオンの昂揚感を理解できる。)だがこれらは自分の人生を生きたのではなく、他人の人生を思考しただけと言うべきものである。他者に感情移入する際に、結局自分自身の行動が伴わないため、自分の人生に対して傍観者的な立ち位置に留まっている可能性がある。そこでファウストはまず若返り、自分の人生をやり直すことになったのだろう。 
 以上より、ファウストに問われているのは、最高の瞬間に到達するまで突き進むか、またはその前の時点で「金と女と名誉」などに十分満足して停止するか、または苦痛に耐えかねて停止するかである。さらにその際の手段として、思考ではなく行動と感情が強調されている。 
 さて、第一の問題として「しっかりした人間」と「くだらない人間」との違いは何かと問うならば、前者は自分の理想に向かって最後まで進み続ける人間、後者は途中で止まる人間ということになる。(この作品では、例えば作品中にあるようにテーブルからいきなりワインが出てくるなどの物理学的問題と同様に、善悪などの道徳的問題も不問に付されているという解釈になりました。当然のことながら、ゲーテが犯罪を奨励しているなどということには決してならないでしょう。)
 このように理解すると、前進し続ける人間は「不運とか誘惑とかいったようなもの」に「堪えうる人間」ということになり、首尾一貫する。ここまではいいとして、なぜそういう人間は「不幸に会うほどますます骨が出来る」のかという二番目の問題が出て来る。恐らく、不幸な経験を通して何かを学べるからなのだろう。何が起ころうとも、これは自分の人生なのだという当事者意識を持ち続けられるということではないか。反対に、人生がうまく行っているときにはこれこそ自分の人生だと主張するものの、そうでないときには他人のせいだとか不運のせいだという具合に、自分の人生に対して傍観者的に振る舞う場合は、「不幸に会うほどますます乱れてでたらめになる。」もっとも不幸を受け止めようにもそれだけの強さに欠ける場合、やはりつぶれてしまう。 
 ファウストの人生をメフィストフェレスと出会う前後で分けて考えるとき、客観性に重きを置く思考の立場から導かれる真理を、主体性を強調する行動と感情の立場から検証したことになるのではないかと今回閃いた。『ファオスト抄』では、Faustの「克己的自己打破」という生き方は「自力本願的宗教」であり、「これがおのずから他力本願的な意味に於いて最後の真意に合致する」とある。この作品でゲーテは、善を追究するのとは違った形で真理を追究し続ける人間の例を出したのだろう。そしてこれが「しっかりした人間」についての最終的な答えである。(もちろんこれは『ファウスト』よりも『ファオスト抄』についての感想というべきものです。『ファウスト』そのものについては、専門家のご意見を当たることをお勧めします。)

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