世界時計

2014-10-20

第5回、『ファオスト抄』について、その1

 ゲーテの『ファウスト』はドイツ文学の最高峰とも呼ばれうる作品である。その中でも重要な「悪魔に身を売る契約の場面」に対して、ドイツ語学者の関口存男(せきぐちつぎお、18941121 - 1958725日)が和訳と解説を付けたものが『ファオスト抄』である。 
 この『ファオスト抄』と出会ったのは今から二十年以上前のことである。いつかこれについて文章をまとめてみたいと思い続けてきた。そして今回読み直してみたのだが、自分の解釈が変わってしまった。『ファウスト』よりも『ファオスト抄』のファンになっているようなものなので、『ファウスト』自体の解釈にはそれほど興味がない。どうしたものかと悩んだが、数回に分けて『ファオスト抄』について考えることにした。今回は昔の自分が『ファオスト抄』のどこを気に入ったか、次回は『ファオスト抄』を現在の自分がどう理解するかをテーマとする。(以下にある鍵カッコの中は引用部分であり、旧仮名遣いや旧漢字、古い表現は断りなく変更します。難読語には丸カッコで読みを示すこともあります。)

 ゲーテに創作されたファウスト博士は、「むしろ知識というものが最後のものではない、書斎にいては人間として生まれた甲斐がない、まず活人生の真っただ中に乗り出して、およそ人間として許される限りの最高の体験、最深の実感を一身に嘗め(なめ)、そも人間と生まれたということは何事を意味するかということを、知るのみではなく『痛感』してみたい……という野心を抱く。しかしそんなことは尋常の手段では到底出来るものではないから、そこへ悪魔という者が現れたのを幸い、悪魔の力を借りて、人生の目の回るような高峰から、あやめもわかぬどん底に至るまでを体験して回る……という構造である。」 
 関口はこの『ファオスト抄』においてまずは和訳を提示する。しかしそれは、ドイツ語のテキストを日本語に「翻訳した」というよりも、役者の経験もある氏が日本語で「演じた」と呼ぶべきものである。その後に続く解説においても、作者であるゲーテの代弁者として振る舞っているかのようである。このようにファウストやゲーテになり代わって語るのが氏の方法の特徴と言える。(関口自身は、「私のは、ホンヤクではなくて、通訳だと思って頂きたい」と断っています。そして通訳の際には「ワタシ」という言葉を常にお客様のために使うということもあります。)契約の場面ではファウストが命を賭けるので、関口も一緒に命を賭けていたのだろう。これが彼の筆力の源泉である。 
 ゲーテの代理人としての関口は、「Faust博士の運命の中に、あらゆる例外的、非凡的、男性的、冒険的一生涯の象徴」が感じられると指摘する。生きている間は悪魔を従え、死んだ後は悪魔に従うという実にとんでもない契約が交わされるのだが、自分の人生を「一期一会と思って緊張して生き」、「後生はどうせ地獄落ち」という「悲壮な意識」を抱くとき、「人生が真に人生らしく見えて来るのではあるまいか」と問うている。この「神に挑み悪魔に挑む闘争的気構え」、つまり、「ファオスト主義」を、「『人間』というものの最高理想の一つ」として確立したことが、「Goetheの画期的功績」であると評価している。
 他方、悪魔であるメフィストフェレスについては、どこにでもいるような「俗物」と規定している。悪魔によって与えられるものとは、とどのつまりは「極く(ごく)俗(ぞく)な意味での『享楽』で、要するに金と女と名誉である。」「『偉そうなことを言ったって駄目だ』というあきらめ、『どうせ』という物の考え方、これがあらゆる俗物根性の根本的気構えである。」「すこぶる常識的な、箸にも棒にもかからぬ現実主義者」。「彼の頭のよさは、あらゆる理想を土足にかけて踏みにじって見せる場合において最もその威力を発揮する。」「毒舌を好む、温かみとお人好さのない、頭の好い、人の悪い、現実的な人間」。作品の中ではファウストがメフィストフェレスと対決するが、解説での関口は世間にいるメフィストフェレスに対して執拗に畳みかける。そして読者の側では「自分の周りではあの人がそうだ」と思い浮かべざるを得なくなり、ファウストと関口の陣営に引き寄せられる。 
 以上の対立関係を踏まえながら関口はストーリーの展開を総括する。Mephistophelesによる「俗論的毒舌、破壊的言辞と、一方Faustの儼乎(げんこ)たる理念とが鎬(しのぎ)を削るこれがFaust一篇の基調なのである。」
 ファウストを演じまたゲーテの代理人を務める関口は、読者に呼びかける。「Faust主義なるものの悲壮な男々しさは、人間完成のためには敢然としてこの『この世ながらの地獄をも当然の景物として笑って一身に引き受ける』という気構えにあるのである。人生意気に感じて起つ者の心理には、必ずかくの如き悲壮な一面がなくてはならないはずである。」
 私が『ファオスト抄』に魅かれた理由はまさにこの「人生意気に感じて起つ」という部分に集約される。関口さんに随分と煽られちゃったなという気もしないではないが、読む度に檄を飛ばされたような気がしたものだ。若いときにこの文章に出会えたことは幸運だったと思う。

追記(2014117日) 
 ファウストはメフィストフェレスによって与えられる「享楽」、例えば「金と女と名誉」などを全否定するわけではありません。「悪魔の方では[中略]Faustをして惰眠と逸楽の俗物天国に鼓腹せしめんと努力する…… Faustの方では、それらの毒素が刺激剤としての機能を発揮する限りでこれを用い、麻酔剤としての機能を発揮せんとするや否や断然これを捨てていこうというわけで、」つまり絶対的な価値ではないものの一定の意義を認めています。

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